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2021年1月10日 読むしあわせ

本を読む。自分のペースで、中断を恐れず、その世界と現実の両方に足を突っ込んでいるような感覚で読み進めるしあわせ。
概ね2時間、目も耳も座ったシートごとその世界に連れていってもらえる映画や、映画のそれに加えて空間の振動や香りまでステージから広がる物語の世界に包まれる演劇やミュージカルが、生活の中で「その世界を楽しんだ時間」として切り離されたものだとすると、本を読むことは自分の生活の中にあって、登場人物の外見や生きている風景、描かれているものの後ろにある状況や思いへ想像を働かせることでその世界を共に創っている気持ちになる楽しみだ。



子どもが産まれてから、どうしてもそういう世界を楽しむ時間を作ることが難しくなって、自分の生活から意識的に遠ざけていたように思う。その楽しさを味わってしまったら、思いがそちらに向いてしまって母としてしなければならないことが後回しになってしまうに決まってる、そうあってはいけないと思い込んでいた。
今のママさん達は柔軟に母業と自分の楽しみを両立させるしなやかさを持っていて、すごいなぁ羨ましいなぁと尊敬の思いで見つめてしまう。子どもが赤ちゃんだった頃の私は書店に立ち寄ることはあっても、文庫のコーナーにはよらず、育児や料理の雑誌の棚と絵本を見るだけの日々。
それはそれで楽しく過ごしていたけれど、朝8時に見たおかあさんといっしょを何にもせぬまま夕方5時の再放送で再び観ることを繰り返す毎日は、ぬるく穏やかで孤独でずしりと重くて、これまでに経験したことのない時間だった。



本を読む楽しさは、自分とリンクしない世界にいざなわれたなら、その世界に入り込んでメーヴェを乗りこなし高いところから全体を、気になるところは地表スレスレの距離まで近づいて楽しむことができるところ。自分の生きている毎日の視線の少し上にその本の世界が浮かんでいて何度でも覗きに行くことができる、覗きにいく選択肢が増えていくところ。
そして、いざなわれた先が自分とリンクする場面のある世界だったなら、自分が歩いている毎日の生活のすぐ横に地続きで部屋を増築してドア一枚隔てただけでいつでもその部屋にいつでも入ることができるような、自分の毎日に増築分の幅が広がるような、増築で増えた幅に自分の毎日を支えてもらうことができるような、そんな感覚だと思っている。



読みたいなと思って買って読めずに積んである文庫本がたくさんあって、昨日、フォローさせてもらっている方が紹介なさっていた本もその中に偶然あって、早速読むことができた今日(いいきっかけを下さりありがとうございます!)。


たくさんの愛があって、美味しい食事があって、ないものを求めても仕方ないという諦めがあって、「どこかにいてくれるのと、どこにもいないのではまるで違う」という悲しさがあって。
いろんな出来事が起こるけど全てが生きていく毎日の上で繰り広げられることで、当たり前のことなんだけれど「生きていく毎日が揺るがない」ということそれだけで救いとなるような力強さがあって。登場人物のように優しくもモテもしないのだけれど、共感も蜘蛛の糸もたくさんあって、悲しくて溢れたのではない涙が一つ二つとこぼれたけれどあたたかく満たされる余韻に包まれる、本ってやっぱりいいなと感じることができて、しあわせだった。



子どもたちをベッドに送り込んだ後、文庫本を持ってお風呂にいき、追い焚きを繰り返しながら湯船の中で読んでいた。
1時間半くらい経ったところで、「大丈夫〜?」と夫がドアの外から声をかけてくれた。本の中では、ご飯を作ってくれる人がいることとしていたけれど、長風呂を心配してくれる人がいる、それもありがたいことなんだよなぁと。
繰り返す毎日の中でちびちびと積もっている不満をチャラにするのは癪だけど、増築した幅に寄り添ってもらって気持ちが大きくなっている今だから、まぁいいか。家庭内平和のためにも読書は有効なんだな、とすっかりふやけながらぬるいお湯としあわせな余韻に包まれて久しぶりの読書を満喫することができたのだった。







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