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2020年12月13日 解なし

高校の数学で、解答が存在しない「解なし」という答えが正解となる事態に直面した時の衝撃。いまだに忘れることが出来ない、これまでの人生でトップクラスの忘れられない衝撃だった。

絡まったものを解くべくコツコツ計算を積み上げて積み上げて、結論が「解なし」。
計算の結果、解は存在しない、ただそれだけのこと。
でも、当時の私は、嘘でしょ答えがないかもしれないことも視野に入れて取りかかれというの?、途中の計算を積み上げたことはなんだったのってことにならないの?(解なしへ導くために必要なことなのに)、無理だお手上げだ…と私の数学という道に繋がる扉がバタンと大きな音を立てて完全に閉じた「解なし」との出会い。

実はその前兆は中学でも感じていた。
平方根。そう、ルート。平方根で「2」に裏切られた思いだったこと。

これまで「2」はずっと身近な存在だった。
指で計算できる易しさ、掛け算だって2個あるって考えれば簡単だった、割り算だって半分こだ。
それなのに、ルートというあの謎の帽子を被った途端、いつもの、あのずっと易しかった「2」が突然見知らぬ異国の人になってしまったようだった。
一方で、「9」が、それまで、指で数えられるギリギリの位置に陣取り、九九でもラスボス的に登場し、割り切れない「3」がさらに3つで成り立っているっていうあの「9」が、いともあっさり「え?ワタクシただの3ですが」みたいな変身を遂げたことも13歳の私の心にグサグサ刺さりまくった平方根。
あ、数字って裏切ることあるんだ。
ルートを被った2を見てそんなことを思っていた。

話が逸れてしまった。
そう、衝撃的な出会いだった「解なし」だけど、その後の人生で「もしかしたらこいつは『解なし』って結論かもしれないぞ」という選択肢を持つことが出来たことは大きな収穫だった。


益田ミリさんの「マリコ、うまくいくよ」に

登ってきた山の
向こう側にあった景色は、
のっぺりとした平地だった

大人って、社会人って
そんな気分だ

と書かれていて、それを読んだ時にも「解なし感」を感じた。
やっぱりそうだ、特別なことじゃない。
答えを求めてあれこれやってきた先には、なんにもないかもしれないこと。
それは生きていく中で当たり前にあることだということ。

答えが「解なし」だったとしても、それを導き出すために積み重ねた努力は無駄じゃない。
それがなければ「解なし」に辿り着けないし、積み重ねた行為(考えの整理なのか計算なのかその時々だろうけど)の経験値は上がる訳だし。
それなのに、解答欄に「解なし」と書く筆はいつまで経っても重いままだ。

わかってる。
今、私は解答欄に「解なし」としか書けないそのすぐ手前まで計算が積み上がっていること。
5ヶ月前、計算に取り掛かる前からきっと頭のどこかではわかっていた。

それなのに、いやいや「解なし」なんてことはきっと私の計算違い、さぁもう一度と何度も何度もいろんな方向から計算を積み上げて、その先に「解なし」が見え始めると積み上げてきたものを全部崩してまた初めからやり直して。

「解なし」を解答に掲げることは、気持ちにカタをつけて忘れていくことじゃない。
気持ちを整理していくこと、それが形になっていくことは、思いの大きさや深さとイコールで結ばれている訳ではない。
一体私は何に言い訳をしているのかわからないけれど、この悲しさの、理不尽の、想定外の事態のこたえはまだ出ないと言い続けていたかったんだ。

11日に「天外者」を観ることができて、いよいよ解答欄に記入するしかないのかな、と思っている。
これからだって、またぶり返して気持ちが揺らぐことだって悲しさがあふれることだってきっとあるけど、「解なし」をいう解答を持った上でのことだ、と認識するタイミングがやってきているのかも、と。

「天外者」の春馬くんは、変わらぬ麗しさと役への思いや覚悟と合わせて、私にそんな思いを与えてくれたのかもしれないな。堪らなくなってしまった時にはまた劇場に行ってその時感じるもの、受け取るものを確かめたらいいんだよな。


原料に白あんが入っているという衝撃もかなりのものだったカントリーマアムをつまみながら、そんなことを思う。

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