見出し画像

記憶

2022年 2月

 お袋の命日は二月の中頃、親父の命日は一月の始め、両親が旅立ってからもう、かなり経つのに、この頃しきりに二人のことを考える…。

 映画『いまはむかし 〜父・ジャワ・幻のフィルム〜』を完成させ、上映活動に取り組んでいるからかもしれない。
 映画の中で使っている親父と一緒に写っているただ一枚だけの写真は、私が三歳の頃のもの…。丁度その頃、親父は家を出た。そして、私はお袋と二人の姉と共に暮らした。三歳の頃の私は何を思うのか、写真の中でじっとこちらを見据えている。何ごとかを問いかけるように。
 親父のことを、殊更に憎むこともなかったように思うけど、それでも、それなりに傷を負うということがあったのかも知れない、と今頃になって思うようになった。

 まだ、言葉を持たない、考えることをほとんど出来ない幼児期には、逆に言葉になる前の思いの部分に、傷や痛みを負うのではないだろうか…。
 言葉を持たない、考えることがうまく出来ないだけに、自分の力でその傷を癒すことが出来ないままに、ずっと痛みを抱えたまま生き続けることになる。
 「記憶」は、言葉に置き換えられるものとしてよりも、むしろ言葉にならないものとして、ナマのまま傷や痛みとして残るのだと思う。けれども、だからこそカラダのココロの奥深い所から、傷や痛みを癒す力、言わば「弱さの力」のようなものが湧き上がり、生きる力にもなりうるのだ。

 何を言いたいかと言えば、映画『いまはむかし』の、映画の中でじっとこちらを見据えている三歳の頃の私の眼差し、存在、記憶こそが、この映画の「定点」なのかもしれない、ということだ。

 あの戦争が終わり、戦時中、国策映画を創り続けた親父が、そのことの総括のような思いで創ったにちがいない、17分のニュース速報『東京裁判ー世紀の判決』が完成し、全国各地で上映された丁度その頃に生れ出た私。その三年後に、私たちを置いて家を出た親父。
 言葉を持たず、考えることもまだままならなかった自分にとって、しかしその三年間あまりの記憶は、忘れ去ることが出来ないようなものだったのだろう。
 どういうことだ…どういうことだ…と考えないわけにはいかない記憶に、ようやく少し目を向けて、考えはじめることが出来たのかもしれない。

 私小説というジャンルが小説にあるように、『いまはむかし』は私の心の奥深くに遺されていた「記憶」を自ら語る、ヒューマンドキュメンタリーなのだ。だから、創らないわけにはいかなかったのだ。
 他人(ひと)事ではなく、自分事として、戦争の時代のことを語りかけるドキュメンタリーを創らなければ、と思った。
 私のこと、と言うことであり、同時に映画を観る一人ひとりのこととして、受け止めてもらえるようなドキュメンタリーに成ったかどうか…。

 まだ、上映は始まったばかりだと思っている。一人でも多くの方々に映画を観てもらいながら、私も又、三歳の頃の自分と向き合いながら、スクリーンという鏡に写る自分自身のこと、今のことを、考え続けようと思う。

だって、「自分」のこと、「今」のことが、
一番よくワカラナイのだから…。

「いまはむかし、むかしは いま。」

---------
上映情報
---------
3月2日(水)、9日(水)、16日(水)シネマ・チュプキ・田端
いせフィルム特集上映開催!
奈緒ちゃん』『やさしくなあに』『ルーペ』『いまはむかし

詳しくは、シネマ・チュプキ・タバタのサイト内、特設ページをご覧ください。
https://chupki.jpn.org/archives/8999


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?