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天と地をつなぐ五重塔

こんばんは 上沼亜矢です。
今夜は羽黒山五重塔について、日本全体のルーツと、羽黒山五重塔のストーリーについて書いてみます。

皆さんは五重塔ときいて、何を思い浮かべますか?
・屋根が五つ重なっている
・タワーのように上に伸びている
・お寺の建物
・古くからの建物

など、初めての人でも外観的な印象はお持ちじゃないかと思います。

写真:京都 東寺の五重塔

では、五重塔っていったいなあに?
という話に触れますね。

簡潔にいうと、
もともとはお釈迦様の骨をまつるドーム型のストゥーパと呼ばれるものでした。

写真:「4travel.jp」様HPより


これが五重塔の御先祖さま?と疑問に思われるかもしれませんが、この傘のようなてっぺんの部分が残されて変化していったと伝わります。

 お釈迦様の骨=仏舎利(ぶっしゃり)は、インドじゅうに八万四千にも分けられストゥーパが立てられたと伝わります。(でもこれは紀元前のお話です。)


いまの日本には三重塔、五重塔がありますが
明治以前は九重や七重の塔も、あったようです。
どれ程高く登りたかったのか
当時の人々の「おもい」を想像します。

明治維新、日本は生まれかわろうと
江戸幕府は終わり、新政府が立ち上がりました。
それまで幕府中心だった政治は

この国のもともとの成り立ちである、天皇を中心としたまつりごとに戻そう、となったのです。

それまで日本は 仏教伝来から約千年以上もの間
「神仏習合」といって
神様は本当は仏様で、
神様は日本での仮の姿
という思想が流行し
神様も仏様も仲良くおまつりしていました。

しかし、この国を天皇中心に運営していこう
となった明治維新、
天皇の祖先はアマテラスオオカミ(太陽の神様)ですから
神様と仏様をあわせてまつることはやめて
別々にしよう、という政府命令が出ました。
「神仏分離令」です。

それまで千年以上 日本人は神も仏も
大切にあがめてきました。
目には見えないけれど 確かにあるものを
恐れ、親しみ、共にいきる民族性が
生活に溶け込んでいたのですが

それを別々にすることは 多くの犠牲も伴いました。
出羽三山も、例外ではありません。

この羽黒山のなかには30ほどの寺院がありましたが
ほとんど取り壊され、唯一、一件だけ「斎館」として残されましたが、その他のお寺も仏像も
みな山の外へ逃がされるか、焼かれたり壊されたり…。
それまで大切に手をあわせてきたものを壊すのですから

それはそれは むごいこと と 時代を想像しながら
個人的には胸が痛みます。

では 五重塔はどうでしょうか。

お釈迦様の骨をまつるストゥーパを起源にもつ塔は、仏教思想と深く繋がるものですよね。どうして、多くの寺院や仏像が壊されるなか、生き残ることができたのでしょうか…。

理由は 経済的なこともあったと出羽三山神社様からお聞きしました。

もう一方で、
五重塔が「鎮魂」塔の役割を果たしていたことから、人々が恐れて壊すにも壊せなかった というお話も伺っています。

五重塔は 起源は紀元前500年頃のインドに生きた、お釈迦様にありますが、日本に伝来したのは(紀元後)500年代。約千年の時をへて、意味も形も変遷しています。

世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔は、聖徳太子の時代に建てられ再現されています。日本に仏教が渡ってきたばかりの頃の五重塔ですから、ルーツに沿い、仏舎利がまつられていると伝わります。いまから1,500年くらい昔のお話です。

羽黒山五重塔が最初に建立されたのは?
その約500年後
いまから1000年ほど昔のお話です。
そこから再建され、いまの五重塔は二代目で
約600年ほど昔に建立されています。

「時」のうつりかわりは
「思想」のうつりかわりを生みます。
そして、仏さまの遺骨にも限りがあります。
(お寺によってはお米をそれにみたてておまつりする所もあるようです。シャリのルーツですね。)

羽黒山という、「東の奥」に五重塔が建てられる頃には
きっと、仏様の骨をまつる という基本コンセプトではない、変化した意味合いが込められていたと想像されます。

五重塔の五層は 「五大」思想にもつながります。
五大というのは
仏教における、宇宙の考え方。
地、水、火、風、空
(ち、すい、か、ふう、くう)

五つの屋根の下から順に
宇宙をおりなす一つ一つの要素の意味をもつそうです。

一番下は「地」
一番上は「空」

これだけ高くつみあげて、祖先たちは
何をしたかったのでしょうか。


そもそも鎮魂の要素をもつ五重塔は

生きている人と あの世にいる御先祖さまを
つないでくれる
通信塔でもあったのでは と 私は思います。

この話は出羽三山神社の広報ご担当の神職様ともお話し、そういうことだね~と、解釈を同じくしました。

出羽三山は
羽黒山が現世、月山が過去、湯殿山が未来
をつかさどり、三山を巡ることで
人は 生きながらにしてうまれかわるといわれる
霊山です。

「生きている」ということと
「死する」ことは 相互関係があり

御先祖様が築き上げてくれたものがあるからこそ、私たちの今があり
その「今」という時は、祖先が私たちに託してくれたように、次の世代に
残してあげないといけないものでもあります。
そして、いつも、自分たちが「生かされている」ことに
立ち返ることが大切じゃないでしょうか。


日本ではじめて創られた「塔」は「柱」だった、と、日本書紀に記述があります。

いにしえの人々は、理屈より感覚に素直だったとすると、地面より高く、より高く建物を建てたいと願う気持ちは 少しでも「天」に近づきたい そういう思いがあったと想像もできます。

明治維新以前の出羽三山は 月山と湯殿山は 女人禁制でした。

月山には、祖先の魂が眠る、と伝わっていましたから
本来はそちらまで登拝したいところですが
女性たちは行けないので
かわりに五重塔の前で 手をあわせ 御先祖様の供養をなさっていたそうです。

月山の祖先を供養するために五重塔をお参りするという行為は、まさに 通信塔のようで、そこまで行けないけど、ここから祈る という感覚だったことでしょう。

また 五重塔はそもそも仏教建築で、お寺の本体とセットで建立され、時に権威の現れにもなるものですが

どうして、こんなに深い谷に建てたのでしょう?
建立者も、平将門ではないか…。と、つたわりますが
時代を照らすと、定かではありません。

特に昔は、交通機関がありませんから、普通の人は
「東の奥」まで歩いてくるのは大変で
沢山の人の目に触れるもの、というのとも
また位置付けが違ったことでしょう。

権威の現れではないとしたら
どういった想いが あの塔を建てたのでしょう。


そこは 羽黒山五重塔の目の前に身を置いて
あなた自身で 感じてみてください。



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