<伊勢滞在記>黒田 大スケ(Daisuke Kuroda)

「滞在について」
あっという間に時間が過ぎて、伊勢に来るのが随分と遅れてしまった。なんでこんなことになったのかと思いつつ電車を降りて、マスクを横にずらして冷たい空気を吸う。伊勢に行きたいと手を挙げた日がいつでどこだったか、全然思い出せない。ゆっくり待ってくれた伊勢市には感謝しているが、それもコロナ禍でなければあり得なかったことだろう。コロナ禍は多大な犠牲と引き換えに無理をしない生活を私に教えてくれたようにも思うが、それは単なるだらしなさと紙一重であり、自ら襟を正さねばならない。しかし私は襟付きの服を持っていない。仕方なく透明の襟を正して伊勢滞在を始めた。
 
私の伊勢滞在は、彫刻家、橋本平八の故郷、朝熊で過ごす事を目的としていた。橋本平八って誰だよう?という人もいると思うので簡単に解説しておく。橋本平八・はしもとへいはち(1897年- 1935年)は朝熊(あさま)現:伊勢市朝熊町出身の彫刻家で昭和の初めの頃に活躍した。当時、他に類を見ない独特の木彫(もくちょう:木の彫刻のこと)作品を制作したが夭折した。一部の彫刻家から高い評価を受け熱烈なファンを持つタイプの彫刻家だ。私も、19歳の時に橋本平八を知り、それから作品や本人について調べだし最終的に博士論文まで書いてしまった熱烈なファンの1人である。橋本平八について説明する時、一般的には北園克衛のお兄さんという方がわかりやすいかもしれないが、私からすると、北園克衛はあくまで橋本平八のよくできた弟(健吉)なのである。
 
このよくできた弟は、兄とその作品の普及に多大な貢献をしている。それは平八の日記や論考などをまとめた本「純粋彫刻論」(刊行年 1942、昭森社)という本の編纂を手掛けている点で、弟が兄の印象を詩的にプラスティックに構成したと言っていいと思う。出版された年は戦争の頃であり出版は簡単ではなかったはずだ。戦争が激化し死が身近に迫るなかで、弟が生前の兄との約束(平八の著作の出版)を果たしたわけだが、その内容はなんとなく、死を目前に故郷を懐かしむ遺書のようにも私には思える。「純粋彫刻論」は橋本平八の理解には欠かせない本であるが、そこから受け取れる橋本平八像は、戦争という最低最悪の事態を前にして追い詰められた弟の愛によって若干歪んでいることは覚えておく必要があるだろう。ともあれ橋本平八と健吉(北園克衛)は様々な面で分かち難く結びついており、私は結局のところどっちも大好きであり二人に長らく心酔しているのであった。
 
平八と弟の芸術が素晴らしいことはここではあえて説明はしない(滞在記だから)が、彼らの作品や理論の背景と出発点に故郷朝熊があることは言っておく必要があるだろう。(だから滞在したいと思った)平八は代表作のほとんどを朝熊の自宅で制作しているし、作品制作の素となるインスピレーションも朝熊の生活の中で得ており、朝熊という場所は単に故郷であるということ以上に橋本平八芸術を考える上で大変重要な場所であると言っていい。一方、弟の方は、朝熊であれこれというよりも、前衛詩人として都会でヤイヤイしていたように思われているが(それも事実)おそらく故郷での暮らしが強く創作の原体験としてあったのではないかと思う。弟は戦後、一度も故郷へ帰らなかったとされているが(近くまでは行ってる)嫌いで帰りたくなかったというよりは、大事に思うからこそ帰れなかったんだろうなと思う。(平八と健吉は三重と東京と離れていても、文通によって頻繁に芸術論を交わしていた。健吉から平八に出された手紙は三重県立美術館に多分今も預けられている。一方、平八が健吉に宛てた手紙は北園のアメリカ人研究者が持っているというのを聞いたことがある。読みたい)
 
というわけで、橋本平八と弟(北園克衛)の故郷に滞在することを主な目的にしていたのであるが、出発の遅れやらなんやらかんやらで、(コロナ)市の方の親切な『どんな場所に滞在希望ですか?』という問いにも、動きやすいとこならどこでもいいですと雑な返答をしてしまい、それが為に伊勢市駅前のホテルの宿泊になってしまったのだった。そもそも朝熊に宿はないかもしれないが、もう少し近いとこ言っとけばよかったなあと後悔して1日目が終わった。
 
「伊勢のいろいろ」
というかんじで滞在記を書きかけたのだけども、なんとなく時系列で書くのは面白くない上に膨大な量になりそうなので、少し方向転換しようとおもう。平八の故郷に滞在し朝熊について色々書くことを目的にしていたのだけど、結局、寒波やら単純に寒いやら色々なことで、思うように進まなかったし、断片的な気づきはあったが、まとまったものを書くほど整理できていない。だからここでは平八のことも含めて個別に気になった場所や店などを紹介する形にしよう。そうだ。そうしよう。


(橋本平八生家)

                           
「橋本平八生家」
近鉄の朝熊駅からあるいて5分もかからないところにある。私が初めて尋ねた時はまだ看板とかは何もなかったのだけど、案内板が駅前にたっていた。あれはもう15年以上前か、大学の先輩が橋本平八について調べられていて、神宮徴古館で橋本平八の展覧会がやっているのを観に行かれるのに「僕は平八大好きです」という感じでずうずうしくも同行したところ、神宮徴古館の方が平八の娘さんとお知り合いで、今日は朝熊に来られているというようなことを教えてくださって、それで訪ねて来た時が初めての朝熊だった。あの日、電車を降りたはいいものの道がわからないので困って同じ電車を降りたおばあさんに「橋本平八さんのご生家がこの近くだと聞いたんですが、ご存知ないですか?」と尋ねたら「私の家です」とそのお婆さんが娘さんだった。なんと奇遇な!ということでよく覚えている。あれから何度か自身の博士論文を書くための取材などで娘さんにお会いした。あまり詳しくは書かないけれど、行くたびに、電車で目の前に座っておられたり、色々とご縁があった。残念ながらもうお亡くなりになられたが、今でもお礼をしてもしきれないほどに感謝している。お話を聞かせていただくだけでなく、研究者も知らないような平八関連の逸品(墨書きした石ころとか)や様々な物を見せてくださった。生前、平八の本「純粋彫刻論」をお持ちで無いとのことで、娘さんが持ってないのはおかしいと思って取材のお礼として1冊差し上げたことがあった。希少本だったけどあの本どうなったかな?とかあの石の行方を時々思う。今の橋本平八の生家はどなたか住まわれているのか、人の気配があった。以前とは少し雰囲気が変わっていて、アトリエにあったとされる因縁のストーブもみえるところにあったけど今はもう無かった。(平八が亡くなる直前に購入したストーブ。これで暖かいところで制作ができると喜んでいたが、その冬に平八はなくなってしまう。)随分時間が経ったもんなあと感慨深く生家をあとにした。
*「純粋彫刻論」はその後復刻。最大の賛辞と感謝と応援の意味を込めて、その時買えるだけ私は4冊購入したのだった。


(水晶)

 
「水晶」
橋本平八の生家からすぐ近くのところに水晶という場所がある。そこは小さな小川の流れているところで文字通り水晶がとれたらしい。私が尋ねた時は、ほとんど枯れ川のような感じで寂しかったが、昔は川の水量が多く、平八の生家もこの川の氾濫でなんども浸水している。そうした意味でも平八の生活は川に近いところにあったようで、平八の石系の作品の多くはこの水晶周辺で採取した石をもとにしたという話もある。(花園に遊ぶ天女もこの川での川遊びがヒントとなったとか)平八も子どもたちもよくそこで川遊びをしたそうだ。じっさいに河原に降りてみると、様々な小石があって面白い。水晶らしきものもあるし色や質感が豊富である。平八が特に好んだ石、蛇紋岩もいっぱい落ちている。地質学者の人に教えてもらったことだが、蛇紋岩というのは水のある惑星特有の岩石だそうで、マグマが水と反応して出来るものらしい。私の聞き違いもあるかも知れず若干不安であるがそうらしい。平八は山の蘇りとして石の作品を作ったけれど、地質学的な知識も持っていたのかな。どうかな。ともあれ河原は美しく楽しい。様々な石に出会える刺激的な場所でこの場所がなかったら平八の作品は違うものになっていたかもなあと思う。1時間くらい河原で過ごした。春にまた来たい。


(駅近くの穴)

                                 

(駅近くの穴:拡大)

                              
「軍属」
橋本平八の娘さんから聞いた話で印象に残っていることの1つにアトリエのことがある。橋本平八は生家の横にアトリエを建てており短い期間であるが晩年はそこで制作している。伊勢湾台風の時に倒壊するまでアトリエはそのまま残されていたという。娘さんに、そこにどんなものが置かれていたかを聞いたことがあったが「戦争の時に軍属が入っているので、アトリエが生前から完全にそのままだったかはよくわかりません」と聞いて、こんなところにも戦争の影があるのかと愕然としたのを覚えている。平八と同世代の彫刻家は、長生きしていた場合には、殆どがいわゆる戦争協力を明確にしている。平八にしても手記の中に何度も「日本の彫刻」という言葉が出てくるように、とても愛国的であったから、どのような形であったかは判らないが戦争に協力していただろう。手記や日記を見る限りでは、平八自身は、暴力的、交戦的ではなかったと思われるが、戦時を生き抜いた弟の振る舞いを参考にするにしても、積極的ではないにしても戦争に加担したと考えるのが妥当だ。そうあってほしくないけど、そうだったろうなあと思うこの頃、娘さんの軍属に関する言及についてずっと引っかかっていた。それで、朝熊でどんな軍事活動が行われていたのか詳しく知りたいと思って調べたが、結局いまひとつ解らなかった。周辺に何か痕跡があるかなと思って、うろうろしてみたが、駅の横に穴を1つ見つけたのと、地形的に駅周辺に兵舎か何かがあった雰囲気があるくらいしかわからなかった。これに関してはもう少し調べてみたい。


(古市)

                                   
「古市」
伊勢市から朝熊のほうに歩いて伊勢街道を進んだところ、五十鈴川の手前というのかな、少し坂を登ったあたり、小高い丘を近鉄電車が切り裂いて走っている、その辺が古市。伊勢市駅から歩いても15分かからないくらいじゃないかなと思う。もともと大きな遊郭のあった場所で、油屋事件という歌舞伎の題材(伊勢音頭恋寝刃これかな?)にもなった事件があった場所。平八は遊郭に通っていたわけでは無いけれど、詳しくは書かないが周辺に知り合いがいたり用事があったらしく、日記にもたびたび登場する地名だったので尋ねてみた。遊郭に関しては伊勢古市参宮街道資料館というところに詳しい資料がいろいろあって、見応えがあって勉強にはなるが、決して楽しいものではなく、昔の出来事とはいえ少し暗い気持ちになった。今はもう普通の住宅が立ち並ぶ静かな街といった印象だが、当時は相当に華やかだったろう。よくよく見てみると建物の壁が薄く朱色っぽいところも所々あって少しだけ往時が感じられた。そういえば、平八もアトリエを朱色にしていたという話を聞いたことがあるが、それは神社の朱色をイメージしたものだったらしい。しかし全面朱色にしたのは良いものの歩くたびに色が服につくので困って、柱を布で巻いていたともいう。「下界より解脱して俗中と交わらず」というのは平八の言葉であるが、一方で「まじめにやれよ」と書いて仕事場に掲げることで自分を戒めていたのも平八。人間には色々ある。


(起矢食堂 おいしい)

                            
「伊勢うどん」
伊勢うどん大好き。あるとき平八の生家の裏山(言い方が適切ではないかも)の朝熊山を金剛證寺から朝熊の集落まで歩いて下山する途中に体調を崩してしまったのだが、なんとか伊勢まで辿り着いて、そこで伊勢うどんを食べたら元気になったという嘘のような本当の何とも抑揚のない話があって、その時から伊勢うどんが大好きになった。我が事ながら恥ずかしいほどに単純である。今回の滞在でも楽しみにしていて伊勢うどん食いまくるぞと意気込んでいたけど、結局行ったのは3軒だけ。一応ご紹介しておく。1軒目は「じろべえ」。ここはともかく柔らかかった。なんと乏しい表現力。しかしおいしい。2軒目は「山口屋」ここはうどんが綺麗で上品。揚げとかも綺麗。来店した時にもう1人お客さんがあって、どうもその人は迷子のおばあさんらしく、店員さんが的を得ないおばあさんとの会話で粘り強く丁寧にして家や電話番号を聞いておられて親切だなあと感心した。おいしかった。3軒目は「起矢食堂」ここが一番美味しかった。小さいお店の中を店の方が奮闘しておられて微笑ましく、食べながら、この扉をこうしたらとか、ここの席をこう変えたらもっと効率的に出来るとか考えながら食べた。番外編1「寿」全体的にいい感じの店。いちごパフェ頼みたかったけど、隣の席の女子高生グループが先に頼んだので恥ずかしくて頼めなかった。今度はぜひ食べたい。番外編2「和食さと」なんでここでチェーン店の名前あげるんや!と怒られそうだけど、伊勢市駅前に和食さとがあって助かっている人は大勢いると思うのであげておきます。平八のふるさとをたずねて別のふるさとに出会ったようなそんな気持ち。
 
まとめ
というわけで短い期間ではありましたが、私なりに伊勢を楽しみ、目的の6分の1くらいを果たした、そんな伊勢滞在でした。そこで思ったことは、伊勢にはまだまだ様々な魅力が眠っているということでした。そして、外国人観光客も多く訪れるようになった中で、多様な人々を招いていくには、いささか伊勢神宮に頼りすぎているのかもしれないと思います。街を歩いてみると面白いものはたくさんあったし、平八や北園のような偉人も多く出ているこの地のポテンシャルは高いと思います。駅前でも観光地でも、地元の人が寄り付くような良い空間を作っていくのが早道な気がしたり。いろいろ思うところはありました。また訪れてみたいです。

黒田 大スケ(Kuroda Daisuke) 美術家

https://sites.google.com/view/daisuke-kuroda/biography

【滞在期間】2023年1月21日〜2月3日

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)