<伊勢滞在雑記>川口 智子(Kawaguchi Tomoco)

◆伊勢をめざす
2020年度、予定していた海外ツアーや国内の滞在制作はすべて延期になって、ぽかんと空いた時間はひたすらに本を読んで過ごした。勉強会や仮想合宿、オンライン開催になった海外の演劇祭の動画をたくさん見たりして、久しぶりにこんなに勉強したなという、その立ち止まる時間はとてもよかったのだけれども、ずっと気になっていることがあった。
 劇場はどこにあるのか?
町中には建物の劇場があって、オンライン空間にも仮想の劇場があって、私の頭の中にも壮大な脳内劇場があって、それでも、劇場がどこにあるのか、ずっと引っかかっていた。
ここ数年、作品を立ち上げる最初の期間には、どこかに出かけていって合宿のように滞在制作をすることが多かった。満員電車にのって窓の開けられない稽古場に通うよりも、生活と隣り合わせで毎日何を食べるかを考えながら作品をつくることを選んでいたこともあるし、単純に、国外のアーティストとのコラボレーションが多かったからかもしれない。
実際、伊勢市クリエイターズ・ワーケーションの参加募集のあった2020年10月は、タイ、マレーシア、香港、そして日本のアーティストが京都に集まって、多和田葉子さんの『夜ヒカル鶴の仮面』のアジア多言語版の試作をする予定だった。アーティストが来日できる状況ではなかったので企画は延期になっていたのだけれども、死んだ人を弔う通夜の一晩を描く『夜ヒカル鶴の仮面』と、移動も集会も共食も、対話さえもできなくなった“コロナ禍”の奇妙に重なり合う状況の中で、演劇をつくるその方法論を考えたいという思いに駆られた。そのために、もう一度、「移動」を考えたい。そんな奇妙な応募動機が許されて、俳優の滝本直子さんと伊勢の旅に出ることになった。

◆神島に行く
7泊のうち、最初の2泊は二見、そのあとの5泊は河崎という行程にした。海の方を出発点にしたいなぁと思ったことと、せっかくなので元気な前半のうちに島訪問をしようと思っていた。そんなわけで到着して2日目には、鳥羽から高速船にのって、伊勢湾に浮かぶ神島に向かった。

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神島

三島由紀夫が『潮騒』を執筆した神島。その日は、朝からすっきり晴れていて、島にいくのにはとてもいい日ですよと浜千代館の方に教えていただいたけれども、実際にはとても船が揺れて、私も滝本さんも無口になって揺れに耐えた。このあたりは伊良湖水道という海の難所で、むかしは志摩の海賊が海の安全を取り仕切っていたという話をあとから教えてもらった。海の音がとにかくすごい。波が岩に体当たりする鈍い音が怖いくらい。到着した日に聞いた二見の波の音とはまるで違う。海岸線もまるで違う。神島の自然はものすごく強い。4kmくらいの島の周回コースをゆっくり歩いた。反時計回りで最後にたどり着いた八代神社に、地元の小学生がつくったいうおみくじがあり、一枚引かせていただいたら「おっとめでたい:灯台の光が進むべき道を照らしてくれるでしょう」。流れにまかせて、伊勢の旅を楽しむことにしよう。鳥羽の港に戻って通称サザエストリートで、サザエのお造りをいただく。初めて食べたヒオウギ貝のうまみにビックリ。

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はじめて出会ったヒオウギ貝(別名アッパ貝とか)

◆朝の外宮にて
河崎の古民家たらちねさんにお世話になる。くつろげるお部屋と小さな中庭、キッチンもあって、生活する感じで滞在できるのが嬉しい。お家の案内をしていただいたあと、居間で少しお話。伊勢神宮で行われる儀式のほとんどは見ることができないけれども、神馬牽参(ちょうど翌日が11日だった)と日別朝夕大御饌祭をちらりと拝見することができるかもしれないと教えていただいた。
翌日、伊勢市観光協会さんで借りた電動自電車に乗って外宮に向かう。この電動自転車、旅の間、とてもお世話になりました。朝7時40分には外宮についてスタンバイ。忌火屋殿からあがる湯気(神様のご飯を炊く湯気らしい)をぼーっと見たりしながら、まつこと30分ほど。少し人が増えたかなと思ったころ、神馬さん登場。蹄に傷がつかないように靴をはいていらっしゃいます。御正宮の前で頭を下げて、来た道をまた戻っていかれました。

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神馬牽参

その後、忌火屋殿の近くにいると、どこからともなく現れた神宮衛士さんに「きみら、何か待っているの?」と話しかけられた。「神様のごはんを見られるのかと・・・」と答えると、衛士さんがそれならば、ここで待って、そのあとここから見て、ああしてこうしてと解説してくださり、木々の間から日別朝夕大御饌祭を拝見。神様はご飯とお水とお酒の他にも旬のお野菜やフルーツを召し上がるそうです。1500年の間、毎日朝と夕(といっても14時くらいとか)、神宮で行われている神事。神事というと、生活からかけ離れたものにも感じられるのですが、神様がご飯を食べるというまさに生活。

◆古市街道に向かう
その日は、松尾観音寺で初午大祭の日ということで、内宮は後日に改め松尾観音寺へ。朝早かったので、松尾観音にお参りしてもまだ昼を少しまわったところ。駐輪場のそばの休憩スペースで地図を見ながらどこに行こうか相談。

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偶然みた地図

「お杉・お玉興行跡」のお杉さんとお玉さん、参詣人から銭を乞うた女芸人だって、と滝本さん。さらに地図を見てみると、「古市芝居跡」「ロの芝居跡」「奥の芝居跡」え、どういうこと!? なんか芝居小屋がいっぱいある。これは行かなければということで、さっそく電動自電車を漕いで古市街道へ。古市街道ずっと上りなので、本当に電動で助かりました。
古市街道、外宮から内宮へと向かうちょうど間にあって、江戸の吉原、京都の島原に並ぶ三大遊郭のひとつ古市遊郭があったところです。今では、昔の面影を残す建物は少なくなって、その面影を残す麻吉旅館もちょうど改修の工事をしていらして中に入ることはできませんでした。芸能の神様・天鈿女命が祀られている長峯神社が、芸能の町であった古市の人々の記憶をつないでいる。街道の終わりの方にある伊勢古市参宮街道資料館が素晴らしかった。

◆伊勢参り
「伊勢にいきたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」。
江戸時代の庶民にとって、伊勢にいくことは夢だし、もう少し踏み込んで言えば、伊勢に行くということは日常から離れて旅に出るという一生に一度のチャンスだった。鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』(中公新書、2013年)では、江戸時代のいくつかの家出事件を実例に紹介しながら、「家出の抜け参りであれ、伊勢に参拝したものを罰してはならないという俗信であるが、市民的認知を得ていたようである。無断とはいえ伊勢参宮をした者を、親や雇い主が罰したりすることはない。こうした考えは、視点を変えると、「伊勢参宮」さえ言えば家出も許されるという理解を呼び込む」としている。さらに興味深いのが、362万人を動員することになる1705年の「宝永のおかげまいり」の発端が子どもと女性の抜け参りであるというところで、以下に少し長くなりますが、前述の鎌田さんの書籍から引用させていただきます。

子供や女性が抜け参りの発端であるということには、一定の意味がありそうだと考えてもよい。元禄時代にはすでに賑わっていた伊勢参りでは、成人の男性が中心であり、都市や農村の経済的成長を背景に、道中や伊勢での楽しい旅文化を満喫していたらしい。こうした状況のなかで、女性や子供たちも、貧しい階層の人々も、伊勢参宮の旅をしたい、一度は参宮してみたいと、常々思っていたとしても不思議ではない。しかし尋常な手段では、女性や子供たちの旅行が認められることはない。強い家族制度のなかでさまざまな規制を受ける妻や子供たち、さらに社会的に厳しい環境にある貧しい労働者たちが、気軽に参宮できることはない。だったら、抜け参りしかない。抜け参りの先例もないわけではない。
女性と子供が発端とされるもう一つの理由は、職場や社会の秩序から抜け出すという反社会的行動を、成人男性が先頭に立って犯すことには、この時代だからこそ抵抗が強い。社会的に責任を問われにくい子供や女性が先頭に立つことで、抜け参りが大目に見てもらえる。反秩序的な出来事の先頭に、弱者を立てることは、庶民の知恵である。このおかげまいりでは、それが実践されているともいえる。(前掲書、p64-65)

バスも電車もない。伊勢参りに向かうその道中で命を落とすことも珍しくない。楽とは言えない道のりでも、日常を離れることのできるもしかすると唯一の楽しみが、江戸時代の庶民にとっての伊勢参り。
「おかげでさ するりとさ 抜けたとさ」と歌いながら行く抜け参り。
神崎宣武『江戸の旅文化』(岩波書店、2004年)では、「集団の幻想的な行動」である大規模なおかげ参りがほぼ60年前後の周期で起こっていることに触れたうえで、「強いていえば、おかげ参りが発生する前には、飢饉とか一揆とかの社会的な動揺があった」としている。そういう意味では今は次の大規模なおかげ参りの前夜であるとも思えなくないのだけれども、同じ神崎さんの書籍の中では、明治になり1890年の東京朝日新聞への記載を最後にしておかげ参りの記事がないことも紹介している。その1890年の記事でさえ、「乞食同様の抜けまいり」と言われるほどだったという。

◆消えた古市遊郭
古市街道には、歴史街道(だったかな?)という小さな旗が掲げられていて、各所に石碑がたっている。中でも有名なのは、歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』のモデルとなった油屋騒動の起こった遊郭油屋。当時、古市には1000人もの遊女がいたというから、本当に賑々しい街道だったのだろう。後で手に入れた中川竫梵『伊勢古市の文学と歴史』に、当時、松尾芭蕉が古市の茶屋(おそらく色茶屋)に立ち寄って、てふという女性の美しさをほめたたえる挨拶の即興吟を詠んだというエピソードもあって面白い。今はアスファルトの道になり、静かな住宅街になっているこの地域に、かつては人々があつまる遊郭と、2軒の芝居小屋があった。日本全国から神宮を目指して来た人たちが、それぞれの文化を持ち寄り持ち帰る、そんな場所がこの古市だったのではないかと思いを馳せてみる。

◆河崎の古書ぽらん
こうなってくると、もっと古市街道のことが知りたくなってくる。石碑で示された点と点を頭の中で動的につないでいきたい。たらちねに帰って、伊勢音頭や『伊勢音頭恋寝刃』を動画で見たり。ますます、古市のことが知りたい。翌日は警報が出るくらいの大雨だったので、1日休むことにして、たらちねから徒歩数分のところにある古書ぽらんに行った。
そしたら、あったんですよ、三重県の棚が。伊勢の棚と、その右側のほうには志摩の棚もあったと思う。とにかく、ああ、これ読みたい、これも読みたいという本ばかり。もう東京へは荷物は送ればいいからということで、選び抜いたのがこの4冊。今では古市という存在が、伊勢(と、伊勢とのお付き合い)への入口になったように感じる。

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伊勢の名残

◆ところで、伊勢の美味しいものめぐり
やっぱり美味しいものに出会えるところには、何度でも足を運びたくなります。

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左上から縦に
森八(二見浦):アコヤガイの貝柱/鈴木水産(鳥羽):サザエのお造り/鈴木水産(鳥羽):焼き牡蠣/多市屋(二見浦):あわびの炊き込みご飯/浜千代館(二見浦):朝食でいただいた伊勢エビのお味噌汁/ちとせ(宇治山田):伊勢うどん/あじっこ(河崎):伊勢えびの雑炊/虎丸(河崎):刺身/つたや(河崎):伊勢うどん/ぎょうざの美鈴(宮町):ぎょうざ/山口屋(伊勢市):伊勢うどん/まるよし(おかげ横丁):コロッケとメンチカツ/江戸金(志摩):あおさ酢、刺身、巻物、カマ焼き

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◆志摩に行く
伊勢市のとあるお店で出会った方が、志摩においでよと誘ってくれた。たらちねを出発して、賢島に向かった。近鉄志摩線に乗って終点まで小一時間。まず立ち寄った定食屋さんで、1冊の本が目に留まる。「志摩のはしりかね」。はしりかねとは船の遊女のこと。また、つながった。さっそく調べてみると、この本が古書ぽらんで売っている。あの時の志摩の棚をもっと見ておくべきだったと思ったけれども、志摩にまで足を延ばすことになろうとは思っていなかった。後日、迷わず、ネットで注文。志摩の英虞湾が一望できる横山展望台にも連れていっていただき、海の話、神島のゲーター祭りの話や、志摩のわらじ祭りの話、いろんな話をお聞きした。またいつでも戻ってきたらいいから、という言葉に甘えて、かならず伊勢志摩に訪れることにする。

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閉館直前の志摩マリンランド

◆で、まだ帰ってない
その日は、鳥羽に泊まることにした。往路は東京から名古屋までバス、名古屋からJRで伊勢市まで来たのだけれども、来た道を戻る気になれない。神島に渡るときに何度も見ていた航路マップ。鳥羽から渥美半島にわたり、豊橋を経由して東京に帰るのはどうだろう? かつての伊勢参りがそうであったように、神宮参拝にかこつけて、いろいろ寄るのが伊勢参りのいいところ。ということで、鳥羽から伊良湖へ。大きなフェリーで今度は全然揺れなかった。伊良湖にわたるともう海の感じが全く違う。落ちている貝殻も全然違う。そこからバスに乗って、電車に乗り換え豊橋へ。豊橋で1泊。翌日朝、新幹線で東京に戻りました。

◆“初回”伊勢滞在まとめ
古市の遊郭と芝居小屋、
志摩のはしりかね、
子どもと女性をきっかけにした宝永のおかげまいり

実際に何か作品につなげようとするまでの道筋はまだ見えない、ただおぼろげにそこに何かあるような感覚がある。
そこには、日常からの移動の感覚、空間的にも時間的にもどこか遠くにでかけていく感覚、それは異界の劇場へと出かける感覚でもあるし、消えるだろうものを弔う、もしくは消えたものに想いを馳せるその感覚とも通じるものがある。
劇場はどこにあるのか? 消えた古市の賑わいはどこへいったのか? 
伊勢参りに訪れる人たちが持ち込み持ち帰る文化の交差点であった古市に眠る人々の営みにもう少し触れてみたい。

川口 智子(Kawaguchi Tomoco) 演出家
https://www.tomococafe.com/

【滞在期間】2021年3月8日〜3月15日

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)