「夢と現で聞く声は」第1話

 四十年以上も前に無人となり廃墟と化した”あの島”。島の元住人である石和久が、子供の頃の生活や体験を廃墟マニアの三人に聞かせるところから物語はスタートする。
 居酒屋での集会を重ねながらネット情報では伺い知れない当時の話に、三人の関心は一層深くなっていく。
 三回目の集会、島に興味を持ったという門野和美が集会に顔を出した。三人に交じって石和の話を聞いていた門野だったが、鞄から取り出したゴーグルを石和にかけるように勧める。
 言われるがままにゴーグルをかけた石和の目の前に広がったのは子供の頃の懐かしい風景だった。ゴーグルの中で奇跡の世界を歩き回る石和、そして彼の耳に届いたメッセージは・・・夢か現か。

1.廃墟の島の元住人 ~第一夜~
 
 中年の男が二人、集会場所である小さな居酒屋にたどり着いた。店はJR新橋駅からやや離れた余り目立たない細い路地に面している。二人が勤めている都営大江戸線大門駅近くの事務所から小道を抜け、陽がまだ沈み切れず紺の濃淡を成す空に鮮やかなオレンジ色を放つ東京タワーを背に日比谷通りを十五分ほど歩いてきた。時折吹き抜ける夜風が心地よく感じられる初夏の陽気である。既にオープンしているビヤガーデンもあり、いよいよビールの季節だ。「居酒屋に着いたら即ビール」口に出さなくとも二人の思いは一致している。
 石和久(いさわひさし)は会社の先輩である原澤克正(はらさわかつまさ)に連れられて、彼の仲間との飲み会に顔を出すことになっていた。初めての人に会うことと自分がゲストであることもあって、やや緊張の面持ちである。
 「あれ、もう着いていたのですか?」暖簾をくぐり引き戸をガラガラと半分開けたところで、いつもの座敷に仲間を見つけた原澤がにこやかに声を掛けた。それから引き戸を大きく開けて店に入ると石和がそれに続いた。
 店の奥の座敷には既に文木太郎(ふみきたろう)と早良壮(さわらそう)が座っていて、石和達の到着を、首を長くして待っていたのだった。遅れては申し訳ないと石和達も約束の時間より十分も早めに店に着いたのに、いったいいつから待っていたのだろうか・・・。
 「今日は石和さんと会えるのを楽しみにしていたから早めに来たんだよ。なあ、早良君」
 「はい。楽しみにしていました~」早良が満面の笑みで元気に声をあげた。二人とももうお酒を飲んでいる。
 文木と早良は倍ほど歳が違う。文木は石和よりも三歳年上で五十三歳になる原澤と同じくらい、早良は二十五歳といったところだ。紳士然とした原澤とそうは見えない文木、太った文木とスリムな早良、歳も見た目も印象も全く異なる三人、実は『廃墟マニア』というワードでつながった友達だ。休日を利用して日本各地にある廃墟を巡り、撮影した写真をこの集会所に持ち寄っては自慢話に花を咲かせている。マニアックな世界ではあるが同じ趣味を持つ仲間は意外と多く、三人は文木が開設している思い入れたっぷりなブログを通して知り合った仲だった。
 廃墟マニアとひとことで括ってもその幅は広く、いわゆる心霊スポットやパワースポットのマニアもそのひとつであると考えられているが、文木達は『過ぎ去った時間や時代を懐かしむ気持ち』いわゆるノスタルジーな魅力を楽しむマニアである。特異な世界を持った者同士の集まりではあるが稀にゲストを呼ぶこともり、今宵は石和が招かれたということだ。
  廃墟マニアの彼ら三人には共通の思いがある。それは長崎県にある『軍艦島(ぐんかんじま)』こそが、廃墟の最高峰であるということだ。
 長崎県にある端島(はしま)は別名を軍艦島と言い多くの廃墟マニアの関心を引付けて止まない。長崎半島(野母半島)から西に約四・五キロメートル離れた場所に位置する小島で、平成二十七年七月に世界文化遺産として登録されたことは記憶に新しいが、注目を浴びる中でこの島の持つとされる暗い過去が話題になったりもした。ただ、廃墟マニア達の興味は衰えることはなく、注目度は増大し、それは世界にも広がりを見せることとなって外国人が訪れてみたい日本の世界遺産として人気は上昇していると聞く。
 明治から昭和までの長き間、良質な石炭の産出で日本の経済を根底から支えたが、エネルギー資源が石油に代わったことでその存在価値を失い昭和四十九年に無人島となった島である。周囲たったの1キロメートルほどの島内に最盛期には五千人が住居していたこともあって建物は必然的に上へ上へと伸びていった。小さな島の中に高層ビルが乱立する姿となるまでには長い年月を要したが、一九一六年(大正五年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設されており、その外観が軍艦に似ていることは当時から新聞記事にもなっていたほどだ。
 そして、本日のゲストである石和は軍艦島で生まれ育った彼らのアイドルだ。文木はもう何十年も前に無人島となった軍艦島に冒険よろしく上陸したことがあるが、早良も原澤もテレビやネットでしか見たことはなく軍艦島に寄せる思いは強い。
 
 「しかし、原澤さんの同僚に軍艦島の元島民がいたなんてビックリだったね」
 「私も驚きでしたよ。たまたまね、会社の飲み会の席で、ぽろっとそんな話をするんだから」文木と原澤が声を掛け合った後、石和の方を見た。
 「自分ではそんな特別なこととも思っていないですし、普段は話に出すこともありませんから。あの時はたまたま・・・・・・」
 「そのたまたまがなかったら今日という日もなかったかも知れないんだから、この巡りあわせに感謝だね」
 「ほんと、ほんと」 
  飲み会がスタートしてから凡そ三十分、それぞれの挨拶も終え、いい感じにお酒も回り全員が打ち解けてきたところで、いよいよ本日のメインイベントである質問タイムが始まったのである。
 「ねえねえところでさ、石和さんはいつまで軍艦島にいたの・・・?」

2.離島の記憶

石和:
 「島に居たのは小学二年生の二学期までです。小学二年生だから八歳ということになりますね。その時、兄が小学六年生で妹は幼稚園生でした」
  「三学期から転校先の小学校に通った記憶がありまが、二学期いっぱいまで島の学校に居たのかは定かではないです。島民が離島して閉山したのが、年が明けた一九七四年(昭和四十九年)の一月十五日ということだし、年の瀬の十二月末ぎりぎりまで島に居たとも思えないので二学期の途中までということだと思います」
 
早良:
 「そっか~。小学校二年生だったら島に住んでいた記憶はありますよね」
 
石和:
 「う~ん、とは言ってもね・・・・・・。これから色々と島の思い出をお話ししますけど四十年以上も昔の話ですし、記憶が曖昧なところや子供では分からないことなども沢山あると思いますので、そこは勘弁してくださいね」
 
文木:
 「まあ、それはね。でもね、我々にとっては貴重でワクワクする情報ですよ」
 
石和:
 「炭鉱の島だった軍艦島の閉山が決定され、島民の離島が順次行われて行きました。クラスの友達数名をお別れ会で送り出し、島の中はあちらこちらで引越しが行われていて、あの時は人がいなくなっていることを肌で感じました。軍艦島は狭い島内に背の高い建物が乱立していることで有名ですが、エレベーターはなかったので引越しの大きな荷物がいくつもベランダ越しにロープでブラブラと釣り降ろされている風景はとても印象的で目に焼き付いています」
  「いよいよ自分のお別れ会になった時はクラスの友達は半分くらいになっていました。仲の良かった友達のお別れ会の時は挨拶の言葉も出なくなるくらい泣きましたが、自分の時は意外と冷静でした。変なもので自分が主役になっていることへの妙な高揚感がありました。でもね、実際に船に乗って、皆んなとお別れする時はやっぱり泣けました。船に乗り込んで汽笛が鳴っても船の進みは遅く、いつまで経っても先生や友達の姿は桟橋に見えているし・・・」
 
文木:
 「なるほどね。船の別れは辛いものがある」
 
石和:
 「はい。船の別れは二度と嫌だと幼心に感じたものです・・・とか言って、まぁ、大人達が口にした言葉が記憶に擦り込まれた感じもありますけどね」
  「一旦立ち寄る隣の高島には、先に離島していた友達がお見送りに来ていたりして泣きっぱなしだった様な気がします。その高島には沢山の島民が移り住んだと聞いています。軍艦島よりは、全然大きな島です。やはり炭鉱の島ですが、ここも一九八六年(昭和六十一年)には閉山しちゃいました」
 
早良:
 「友達との別れか・・・・・・ところで、クラスに生徒って何人いたんですか?」

3.廃校のクラスメイト 

石和:
「これ、当時の写真です」
 
 石和が持って来ていた写真をテーブルの上に置いた。女性教師を中心に子供達が前後二列に並んでいる集合写真で、入学式や始業式とは違ってすまし顔もなく、ありのままを切り取ったなんとも微笑ましい一枚だ。
 
石和:
 「これを見ると、男子が九名、女子が十一名の二十名ですね。多分、これが全てのクラスメイトなのだと思いますが、ちょっと記憶が曖昧です」
  「ちなみにこっちの写真は幼稚園を卒園する時の集合写真で、男子が二十五名、女子が二十一名の合計四十六名です。このまま小学校では二クラスに分かれたので、やはりひとクラスは二十名ちょっとだったのだと思いますよ」
 
文木:
 「思っていたよりは少ないなぁ」
 
石和:
 「軍艦島は人口密度が世界一だったことが有名ですが、ピーク時が五千人でも私がいた時はその半分くらいでしたし、そのうちの子供の数となれば知れてはいますよね。まぁ、周囲一キロほどの狭い世界に沢山の人がいたので、みなさんには人が溢れかえている印象になるとは思いますけど」
 
早良:
 「当時のクラスメイトと会ったりしているのですか?」
 
石和:
 「残念ながら・・・私は誰とも会っていません。幼くしてみんなとは離れ離れになってしまったこともあり、別れの際に連絡先を教え合うこともありませんでしたから」
  「今からでも、SNSなどの力を借りれば連絡を取れたりするのかも知れませんね。でも、皆んな五十歳過ぎになっている訳で、早ければ孫がいたりして。自分も白髪頭になっちゃったし、会いたい様な会いたくない様な・・・」

早良:
 「やはり、気になりますか?」
 
石和:
 「気にならないというと嘘になりますかね。もう会うこともないのだろうけど。みんな私みたいに島の思い出を語っているのかな・・・なんてね」
 
 「他の人にはこうして、ちょっとした思い出話しを喜んでいただけるのですが、当の私達は案外普通に生活していただけですしね。私みたいに思い出を語って聞かせている人はいないかも知れませんね」
 
文木:
 「いやいや。まぁ、そんな風に考えないで沢山語ってくださいよ。さあ、もう一杯」文木が早良のグラスにビールを注ぐ。
 
文木:
 「学校のこと、また少し聞かせてもらうね」
  「そうだなぁ~学校に給食はあったんだよね?」

4.時化が続いたら
 
石和:
 「給食はありましたよ。普通に。でも、ネットの情報では給食が始まったのは一九七〇年からってなっているので、私が小学校に入る二年前からなのですね。知りませんでした」
 
 ほらっと、石和がスマホを差し出して指を指す。それを文木、原澤、早良の三人が覗き込む。がネットに沢山転がっている軍艦島の歴史が書かれているサイトだ。
 
石和:
 「給食が始まるまでは、昼食は自宅に帰って食べていたって書いていますね。まぁ、どんなに学校から遠い家でも直線距離で四〇〇〜五〇〇メートルだから、それもありですね」
  「ん、ということは、うちの兄貴は自宅で昼食を食べていのたのかな? 当時の自宅は三十一号棟っていう学校とは反対側の島の端にあるアパートだったから、ちょっと大変だったのかも。今度聞いてみよう・・・・・・」
  「学校の隣に二階建ての体育館がありました。その一階に給食センターがあったのは記憶にあります。給食当番になったら食べ物を取りに行かないといけないし、しっかり記憶にありますよ」
 
早良:
 「学校の裏側にある建物ですよね。上空写真で確認したけど体育館も二階建てだったのか。さすが。」
 
石和:
 「体育館の一階は格技場がありました。剣道と柔道でしたね。友達のおじさんにあたる人が師範をしていたこともあって、私は剣道を習っていました。隣の柔道場に遊びにいったりして真面目ではありませんでしたが、おじちゃん、お兄ちゃん達に可愛がってもらった楽しい記憶があります」
  「そうそう、給食でしたね。給食の内容は特に変わったことはなかったと思いますが、ちょっとした思い出があります」
 
文木:
「ほう、なんです?」
 
石和:
 「実は一度だけ菓子パンだけってことがありました。種類はバラバラでした。実は何日も海が時化て食材が入ってこなかったからなんです」
 
 「ごめんね。我慢してね」っていう先生の気持ちとは裏腹に、私たちは大盛り上がりでした。ちょっと特別ってなんだかワクワクしますよね。私はお気に入りの砂糖パンをゲット出来たこともあってやたらと記憶に残っています」
 
文木:
 「ははっ、なんかわかる気がするな。そうそう、こんな話が記事とかでは分からないんだよな。まさに実体験ってやつだ」
 
早良:
 「本当ですね」
 
 「話は変わりますけど、さっき話にでた石和さんが住んでいた三十一号棟ってどれでしたっけ?」
 
 早良がスマホに軍艦島の上空写真を表示して石和に差し出した。

 
5. くの字に曲がった建物
 
早良:
「三十一号棟ってどれでしたっけ?」
 
石和:
 「上空から見てくの字に曲がったこの建物が三十一号棟です」
  早良の差し出したスマホ画面の上空写真を石和が指差した。
 「先程話をした通り学校とは離れた場所にあります。まあ、距離は知れていますけど」
  「六階に住んで居ました。確か最上階だったと思います。島をぐるりと取り囲んだ岸壁よりもずっと高い位置にありましたから、玄関側通路の窓の外は見渡す限り海でしたよ。オーシャンビューってやつです。素晴らしい眺めでしたが、台風の日などは荒れ狂う海が怖かったです」
 
早良:
 「玄関側通路に窓があるんだ。吹き曝しじゃないんですね。まぁ、これだけ海に近いんだから、波風考えたらそりゃそうですね。でもいいなぁ~窓一面が海かぁ~。なんだかリゾートホテルみたいだ」
 
石和:
 「屋上でもよく遊びましたよ。一面コンクリートで特に何があった訳でもなかったですが、島では少し開けた場所はどこでも子供の遊び場でした。大人の胸位までのコンクリートの塀で覆われていましたから安全でした。テレビのアンテナが立ち並んでいたのと、物干し台が沢山あったのは記憶に残っています」
  「三十一号棟の一階には郵便局がありました。また、地下には理容美容室や共同浴場がありましたので、他よりはちょっと便利なアパートだったかも知れません」
  「アパートを北側に出ると目の前に映画館があって、その前にあったちょっとした空き地も子供達の遊び場でした。その傍には売店もあって、よくジュースやアイスを買っていましたよ」
  「遊び場は島中あちらこちらにありました。学校の運動場や公園は当たり前で、屋上が緑化されてちゃんと広場になっているアパートもありましたね」
 
 スマホの上空写真でひとつひとつ指さしながら石和が説明する。  
 
文木:
 「なんだか興味深い話が沢山でたね。ひとつずつ確認させてください」
  「三十一 号棟の一階には郵便局があったの?」

 
6.郵便局の電話 ~第一夜の終わり~
 
文木:
 「三十一号棟の一階には郵便局があったの?」
 
石和:
 「はい。それはハッキリ覚えています。でもね、私の中では郵便局というよりも電話局でした。日本電信電話公社ですしね」
 
早良:
 「電話ですか?」
 
石和:
 「はい、各家庭には電話はありませんでした。島の住民の多くは三菱鉱業の社員とその家族でしたが、会社の上役の方の自宅には電話があったと聞いていました。子供達の中でも家に電話があるか無いかで偉い人の子供だとか違うとかの会話はありました。だからといって子供達に上下関係は無かったですけどね」
 
 「で、自宅に電話が無い我が家なんかは郵便局に電話がかかって来て、郵便局のお兄ちゃんが家まで電話が来たことを伝えに走って来てくれていました。両親の実家から、たまに電話が掛かって来て、親子で一階の郵便局まで急いで階段を下りたことが思い出されます。なんと非効率とも思うけど、困ったような話を大人から聞いた事はなかったですね」
 
早良:
 「へぇ~、態々呼びに来てくれるのですか。すごいなぁ~」
 
石和:
 「あれ? よく考えたらそうですね。まさか島内の隅々の家まで局員のお兄ちゃんが走っていたって事はないでしょうから・・・・・・。他に公衆電話があったとも聞かないし、 三十一号棟だけの特別サービスだったかも知れませんね」
 
文木:
 「そうか。こりゃ~ちょっと調査が必要だな。じゃ、次の質問といきたいところだが結構な時間になっちゃったな」
 
 柱の時計を見ると、午後十時に近い
 
原澤:
 「本当だ」
 ここまで黙って話を聞いていた原澤が声を出した。
 
原澤:
 「時間が経つのが早いですね。では、続きは次回に持ち越しということで。石和もすっかり溶け込んだし、また集会に顔を出してもらうことにしましょう」
 
石和:
 「はい。よろこんで」
 
早良:
 「じゃ、次回は三十一号棟にあったというお風呂についてですね」
 
石和:
「はい。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
 
文木:
 「よし、では本日はお開きということで」
 

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