ジョーカーは何処に?-Where is the Joker?-

○『ジョーカー』における笑いとアイデンティティ

 『ジョーカー』という映画について語り、ジョーカーが何の表象であるかを考えようとする時、まず、アーサーとジョーカーの二面性について言及する必要があるだろう。人を笑わせたいと願い、コメディアンを目指すアーサーは道化師の仮面をつけることによってジョーカーという存在に変身する。ジョーカーに変身したアーサーは街を混乱と恐怖の渦に巻き込んでいくが、この映画は、単に悲惨な生い立ちや社会構造によってジョーカーにさせられてしまった誠実な青年の物語ではないかもしれない。むしろ、ジョーカーこそがアーサーのアイデンティティの象徴であり、抑圧から解放された真の姿なのだとしたらどうだろうか。
 この謎を解くカギは、アーサーが見せる「笑い」の中にあると思われる。アーサーは、幼児期の虐待で脳に損傷が生じたことによって突然、「笑い」出してしまうという持病を持っているが、アーサーの「笑い」は、自らの感情が抑圧された際に起こる、自己防衛的な機能を持つ「笑い」なのではないだろうか。アーサーは怒っていても悲しんでいても、ネガティブな気持ちそのものを「笑い」に変えてしまう。職場を解雇されて、荷物をまとめて出て行く時も自らの怒りを冗談に帰ると同時に「笑い」出すことによって自分の精神状態を保とうとしていたのではないか。つまり、嫌なことをされた時に無理して笑ってしまうような、「笑いによる逃避」である。そのことが最も如実に表れているのが、自分が母親の養子であることが病院の記録によって判明するシーンである。アーサーは、心の支えにしていた母親すらも信じることができなくなり、自らの精神の拠り所を完全に失ってしまう。そこで出てくるのが、怒りや悲しみの叫びでもない「笑い」なのである。
 人は誰しも「笑う」ことによって他者とコミュニケーションを取ることができる。笑顔を見せることによって、場の空気を和ませ、他人と仲良くなることができる。失敗した時も、笑ったり冗談を言ったりすることで、場の空気をポジティブな方向に持っていくことができるだろう。つまり「笑い」はポジティブな方向にあらゆる関係性を持っていくことができるということだ。アーサーは抑圧された自分のネガティブな感情を「笑い」によって創出していく。そこにあるのは、怒りや悲しみが内包された「笑い」であり、同時に、自らの境遇すらコメディであり、バカバカしいものだという感情の表れなのかもしれない。
 アーサーが、ジョーカーに完全に変貌をとげるのは、自らが養子だと判明し、母親を殺害した後のことだ。社会から虐げられ、人を笑わせることも叶わず、もはや守るべき人すら失ったアーサーは、抑圧されていた感情を完全に解き放ち、怒りを隠そうともしない。彼が所持している「笑い」は自己防衛的機能を持った「笑い」ではなく、世界を嘲笑し、人を馬鹿にするかのような攻撃的な「笑い」に変化したのだ。自らの感情を抑圧する「笑い」を仮面として身につけていたアーサーは、その仮面を外し、自らの感情を解放し、ジョーカーのメイクをすることによって、自らのアイデンティティを取り戻していった。ジョーカーとして舞台に登場したアーサーは、自らの殺人を正当化し、自らを笑いものにしたテレビ番組の司会者を射殺する。そこに現れるジョーカーは、映画館に足を運んだ我々の抑圧された感情そのものが投影されている。ジョーカーが言うように、現在の我々が住んでいる「善悪の判断そのものが主観で決められる」世界では、マジョリティの意見が倫理的に間違っていようとも数の暴力によってマイノリティの意見は淘汰される。いわゆる「普通」の人間が、多数派であるという一点のみにおいて決定されうるという暴力性が至る所で存在しているのだ。そのような決定で見出される「普通」の人間になることに、いったい何の意味があるのだろうか?

○私たちの中のジョーカー
   アーサーは突然笑い出す病によって、いわゆる「普通」ではない人間として生活を送り、そのせいで「笑われ」、同時に「笑いによる逃避」を試みてきた。しかし、ジョーカーによって「笑い」が虐げてきた人間に対する攻撃の手段に転換されることで、自らと向き合うことが可能になり、アイデンティティを確立することが可能になったのではないだろうか。舞台上でジョーカーがテレビ番組の司会者を射殺し、自らの殺人を正当化するシーンは、映画のクライマックスであり、鑑賞者にある種のカタルシスをもたらす。事実、ジョーカーの行為に感情移入し、爽快感を感じた人間は多いだろう。
私達の中にはジョーカーが抑圧された感情として潜んでいて、「笑い」によってしばしば抑圧されている。自分が所属するコミュニティで生きる上では、「笑わせなければ、笑わなければ」という強迫的な意識を持つあまり、ある種の閉塞感や生きづらさが生まれてくる。「笑い」は、知識や価値観や世界観の共同性を相互に確認する行為でもあり、そこから外れた人間は自ずから淘汰されていくことになる。アーサーは「病気による笑い」と「場の共同性を無視した」笑いが結びついており、病気による「排除」と共同性を無視した笑いによる「排除」が同時に存在している。私達も同じように、「場の共同性」を理解し、そのルールに合わせて自らの役割を演じる必要があり、ルールに従えなければ「排除」されてしまう。何かしらの病気や障害を抱えている場合、そもそも社会全体から「排除」されてしまう可能性も高い。そして、「場の共同性」を形作る強固なルールの一つである「笑い」に無理やり従うことによって感じる感情の抑圧は、いつか私達をジョーカーにしてしまう可能性を大いに孕んでいる。
   ジョーカーとは何だったのだろうか?既に述べているが、ジョーカーは私達の抑圧された精神を表象するキャラクターである。ジョーカーはしばしば私達の心の中に顔を出し、「笑い」という仮面によって自らの役割を規定し「場の共同性」を保持するために生きる私達の感情を突き動かす。ジョーカーのように、秩序を壊し、抑圧されていた感情を解放し、自らを虐げてきた他者を射殺することへのカタルシスを感じる人間は多く、中には実行しようとするものもいるだろう。しかし、私はジョーカーになってしまった人々を否定することはできないと思う。個々人がジョーカーになる理由は様々だが、「普通」を規定しようとすればそれ以外が「排除」される傾向にあることは間違いない。そして、その「普通」を規定しているのはあくまでも、マジョリティによる権力構造である。「場の共同性」のために、他者と「笑い」あえるかどうか。他の人と同じタイミングで「笑えるか」どうか。そうした様々なルールの上で成り立つコミュニティにおいては一方的に「排除」されるべき人間が決定する。そうした理不尽な「排除」によって、誰からも承認されず、既存の役割を演じることすら難しい人間が殺人を犯したとして、行為自体は犯罪でも、なぜそうした犯罪行為をせざるを得なかったか、ということにまで考えを巡らせれば、同じ立場に立つことは難しいまでも同情することは出来るのではないだろうか。
現代社会において重要なのは、異なる価値観を持つ他者を理解しようとすることである。同じ思想の人間でコミュニティを形成し合うだけではなく、一人一人との対話を通して、お互いの本質に迫っていくことが必要だ。そうしなければ、これからもジョーカーになる人間はどんどん増えていくだろうし、ジョーカーが世界を支配したとしても、その中で権力構造が生まれてしまうだろう。もっとも、今の社会状況では、ジョーカーが増えた方が、もはや健康的なのではないかとすら思えてしまうけれど。
   繰り返しになるが、コミュニティの理不尽な「排除」を許さないためにも、他者のアイデンティティを承認し、自らもそれについて考えることは大切で、それは他者の痛みを想像できるということにつながる。『ジョーカー』は、本当に「笑い」あえる社会はどのように作られるべきか考えさせられる優れた映画だと思う。生徒に倫理観を教育する学校の先生にも、予定調和の道徳の教科書は捨てて、『ジョーカー』を見に行くことをオススメしたい。

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