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雑文(52)「マネキン」

 好みでもない衣装を着せられ、一日中なにもせずに、行き交う人々をぼんやり眺めながら、そこに立っている。
 立ちっぱなしの仕事だから、あくまでも衣装がメインだから、私はぴくりとも動かずに、着せられた衣装を着こなし、ポージングを決めこんで、視線を彼方へ運んで、流れゆく雲の濃淡にも、移りゆく季節の景色にも、微動だにせずに、一年中そこで飾られてある。
 腰に手を当て、息もせずに、主役の衣装を強調し、誰にも文句を言わずに私は、磨かれたガラスに映る私を見ながら、通行人たちに、私ではなく、衣装を見られ、あれこれカップルたちに言われ、過ぎ去っていくそいつらの行方に目をやることもなく、ときおり街路樹にやってくる小鳥たちに心を奪われながら、私はじっとそこで大人しく、窮屈なその空間の中に取り残され、いや故意に飾られ、晴れの日も雨の日も、滅多に降らない雪の日も、季節の衣装で身を飾られ、一歩も動かず、そこで生涯を終えるのを覚悟し、私は立ち尽くし、ぼう然と、並木通りをゆくカップルたちに、せわしなく行き交うサラリーマンたちに、私というよりかは、私の着ている衣装を見せびらかし、店内におびきよせる助けに加担し、早朝から深夜まで、店の灯りが消えるまで、店を代表して広告塔になり、その通りに面した小狭な、だが、きれいにまとまった、お洋服屋さんで、年のいった店長と、最近雇われたバイトの若い店員くんの三人でタッグを組み、ささやかな服飾を売って、生計を立てている、そのお手伝いをしている、のが私の役割だ。
 店内は一定の温度にキープされてあったから、暑い日や寒い日なんかは、右から左から来て過ぎてゆく人々の服装を見て、またその日の天候を見て、判断するしかないが、街路樹の色変わりによっても季節の移り変わりが判断できるので、四季折々飽きずに、別に退屈せずに、私はそこに立っていられる。
 また季節の変わり目に私は、それまで着ていた衣装を脱がされ、首元の黒の、チョーカー(ちゃらちゃらメタルの鎖がうるさい、正直好みではない、私の趣味ではない、性格とはちがう、世帯を持たない店主の、趣味の、アクセサリー)だけにされて、照明の下に放置され、あらわになった私の肉体に、いち押しの衣装を着せ、なんどかの試着のあと、ようやく決められると関節を折られ、雑誌に載っている外国人モデルを参考に、ポージングをとらされると私は、ショーウインドー内に運びこまれ、それから数か月は同じ衣装のまま、そこで立ち、そのポージングのまま、お客さんの、お客さんになろうとする人々の目を惹きつける役を担う。
 
 ある日、私とは趣味のちがう店長が病に倒れ、店を畳むことになった。
 私の次の行き先など、あるはずもなく、廃棄業者に乱暴に回収され、関節を強引に逆に曲げられようとも、痛いとは言えずに、軽トラックに積みこまれると、湾岸のごみ処理施設場のセンターに持ちこまれ、私は他の廃棄物たちが積み重なる廃棄スペースに野ざらしにされ、少なくともここにあるごみたちよりかは華やかであった人生と離別することになった。
 めぐりゆく季節の風化によって、私の肌の、そのコーティング塗装は剥がれ落ち、ひどく醜い姿になろうが、救いなのはそれを直視できるものがあたりになかったことで、それが私の救いになった。どれほど朽ち果てようとも、私にはそれを見ることができないのだ。このまま朽ちて、ちりに扮するまで、私の意識が続く限り、あわれな私を知る必要がないし、別に知りたくもないが、色とりどりの、季節の衣装で身を包んでいた、あの華やかな私のままで、私は終えられるのだ。
 このような場所で、野蛮なカラスに突かれることも、あめかぜに侵されることもない、あの場所で立っていた私が私なのだ。いまの私は私ではない。
 
 数年度、私はショーウインドー内に立っていた。
 ただし、そこは以前のような、通りに面した立地ではなく、デパートで開催される個展の展示場である。
 リサイクルアートというのか、若い気鋭の芸術家の男に拾われた私は、首から下をきれいに切り離され、首だけを抱えられ、菊人形ならぬ、季節の花々をまとって、回覧にきたお客さんたちに、好奇の目で見られ、ほほうと感心され、若手芸術家の男に指をさされ、私のコンセプトを説明される。
 頭部だけになってしまったが、いい香りの漂う花の衣装は気に入っている。
 正直、立ち仕事はきつかった。
 それに個展だから、いろんな場所にも行けるし、未知の刺激があった。見る景色がちがった。出会う人々もちがった。
 私は仕事を辞めて、よかったと思った。

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