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ブレトンウッズ体制の完全崩壊 ゴールド125

ニクソンショックが起こったことにより、各国の外国為替市場は即刻 -日本はしばらく遅れてから- 閉鎖された。

そして、各国はそれぞれが臨時的に変動為替相場制を採用した。

ドルの下落

ドルと金が公定価格で交換することが停止 -ニクソンショック- されたことにより、ドルは下落していった。そこで、各国政府は固定為替相場をすぐに回復するように要求し。そして、アメリカ人でさえも為替レートが大幅に変動することは経営上のあらゆる決定が不確かになってしまうことを認めた。


スミソニアン協定

そして、1971年12月、ワシントンのスミソニアン博物館に世界主要10か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり会議が開かれた。その会議で、外国為替市場に秩序を取り戻すための結論が合意に達した。

その合意により、金のドルに対する新しい公定レートが1オンス38ドルに設定されたのだ。これは、ドル平価を7.9%切り下げたのと同じことである。さらに、合衆国は10%の輸入課徴金も取り下げた。

この合意に従って、世界主要国はそれぞれの通貨とドルとの間の為替相場を固定した。


ブレトンウッズ体制に戻ったわけではない

スミソニアン協定により、固定為替相場は戻ったように見える。しかし、もとのブレトンウッズ体制に戻ったわけではない。

ブレトンウッズ体制はドルの切り下げがあることは想定されていなかった。つまり、スミソニアン協定において、ドル平価が金との関係で切り下げになったことで、ブレトンウッズ体制の基礎は揺らいだと言える。


ブレトンウッズ体制は完全に崩壊した

しかし、このスミソニアン協定でも、世界中の激しいインフレ圧力を乗り切ることはできなかった。さらにアメリカの国際収支の赤字幅も増大し、ドル不安が再び高まった。

1973年2月、ドルの金に対する公定レートはさらに10%引き下げられ、1オンス42.2ドルとなった。

そして、同月、日本が世界の主要国に先駆けて、ドルとの固定為替相場を諦め、変動為替相場制へ移行した。翌月1973年3月、世界の主要国すべてがドルとの関係において変動為替相場制へ移行し、これによって完全にブレトンウッズ体制は崩壊した。


石油ショック

1973年はOPEC(石油輸出国機構)が石油価格のとてつもない引き上げ、生産制限を決定した年でもあった。これにより、世界経済全体に強力なインフレの嵐が吹き荒れることとなった。

こうしたことすべてが、合衆国の賃金と物価の管理体制にとって過大な負担となった。石油価格の上昇とドルの切り下げに直面し、合衆国政府はこの管理体制を放棄するしかなかった。

そして、合衆国財務省は保有する金の約6%を競売にかけた。それは、「金およびその他の以下なる産物も、通貨制度の適切な基盤とならない」という信念を示すものだった。


IMF

これらを受け、IMFは二つの重大な決定を下した。IMFは金の公定レートを廃止することに同意し、IMFが保有する金の一部を競売にかけることにした。


金との交換レートの変動をコントロールするという国際的な合意は形骸化してしまった。多くの国でインフレが猛威をふるい、株、債券、現金の価値がじりじりと低下していった。


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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