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ゴールド 金と人間の文明史-41 ディアス、ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス

アフリカの南端をまわって東岸に到達した最初のヨーロッパ人はポルトガル人のバルトロメウ・ディアスだった。

のちに、ポルトガル王ジョアンⅡ世はこのインドへの入り口となった岬を喜望峰と名付けた。

そして、1497年に同じくポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインドへの一番乗りを果たした。

ポルトガルはそれ以降、アジアの海域に貿易拠点を築いていくこととなった。


1488年にバルトロメウ・ディアスの航海談を聞きに集まった人々の中に、クリストファー・コロンブス -ジェノヴァの航海者- がいた。

コロンブスはまっすぐに西へ向かうほうがインドやアジアのその他の地域への航海に要する時間、費用を短縮できると考えていた。

彼は、ポルトガル、スペイン、イングランド、フランスの王に航海の援助を申し出たがいづれも却下された。


しかし、スペインのイサベルⅠ世はコロンブスの独創的な計画への関心を失っていなかった。

ついにコロンブスはスペインの援助を受け、1492年8月3日に航海へ -錨を上げよと命じ、「神の御名において」と締めくくり- 出発した。


西へ向かい、サン・サルバドル島に上陸したコロンブスはこの地を日本 -当時のスペイン人の呼び方でシパング- の沖合の島と確信した。

彼らはその二日後にサン・サルバドル島を出発し、キューバに上陸したが、そこで金は見つからなかった。見つかったのはタバコだった。彼らはタバコではなく、大量の金でなければ満足できなかった。

コロンブスは最初の航海から6年後の3度目の航海のときにも、 -彼が発見した土地はインドではなかったのに- まだ自分がアジアにいると思っていた。彼にとっては、インドこそがこれだけの危険を冒すに値する唯一の目的地だったのである。


コロンブスの遠征への命令ははっきりしていた。スペイン王フェルナンドⅡ世が命じた通りである。

「金を獲得せよ。できるかぎり人道的に、だが万難を排して -金を手に入れよ」


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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