携挙研究②『方法』

研究する際に、どんな方法で調べ、まとめていくかの方法がとても大切だと思います。

というのも、①『動機』でも書いたように、携挙神学(ディスペンセーション主義)の神学枠組みの根拠を示すための部分的な聖句引用ですと、その聖句が本当に患難前携挙のことを示しているかどうかがわからないからです。

なので、まず第一条件は「聖書が何を意図しているのか」です。文脈を必ず確認し、全体的に見て、その聖句が意図していることを読み取ります。

と、ここまではよほど問題なく納得できると思うのですが、ここからが人によっては、そんなんで納得できるか!と客観的な説明の質が問われるところかと思います。


ベースとなる方法

ベースとなる方法を決めていきます。①どのように精査するか、②キーワードと構造。

どのように精査するか

以下、思いつく方法を挙げます。

  1. ディスペンセーション主義の一次資料を探り、提示されている聖句とその解釈を精査する。

  2. 聖書にある携挙や再臨に纏わる聖句をピックアップして、その前後の文脈を確認して精査する。

  3. 聖書全体を読んで、講解していき、解釈し、文字通り「聖書全体」を精査する。

  4. 聖書以外の文献を探り、関連する記事をピックアップして精査する。

方法を選ぶ際に、何を最重要点としているかで、その質も問われてくると思います。

今回の最重要点は「聖書は何を意図しているか」なので、聖書以外の文献を根拠とするのはできません。参考程度になると思います。なので、1と4は外します。となると2と3が妥当かと思われます。

2の場合だと、ポイントで精査する分、効率的で、読む側もわかりやすいというメリットがある反面、やはりその他の聖句を省いてる分、結果的に部分的な解釈だと突かれれば、その通りと言わざるをえません。客観的説明をする目的からすると、質の低いものとみなされても仕方がないことかと思います。

3の場合だと、2の悩みである部分的解釈ではなく、文字通り「聖書全体」からの説明ができ客観性の質が高まりますが、デメリットとして、膨大な時間がかかることと、読む人としても、途中で読むことが億劫になってしまい、本来の目的である「奥義を伝えたい」ということが達成できなくなってしまいます。

そこで、適宜に2と3を使い分けることとします。また、1と4も参考として載せていくこともありとしますが、あくまで、3の方法をベースとして、わかりやすく説明するために2を表向きにだしていくというスタイルとします。

記事は2のようなものを前面に出しますが、記事化はしないものの、基本的に3を長い時間をかけて行います。

解釈の方法論についてもありますが、今回はここまでとします。

キーワードと構造

「携挙」のみの研究になれば、それこそ部分的な狭いテーマとなり、客観性に欠ける説明となってしまいます。なので、聖書全体を眺めながら、携挙について見ていくことに重点をおきます。

例えば、聖書全体はそもそも何を語っているのかというテーマを探します。

仮に「神の国」だとします。そこからロジックツリーを作ります。「神の国」→「①キリスト」「②契約」……、「キリスト」→「①救い主(しもべ)として」「②さばき主(王)として」……「さばき主(王)として」→「①再臨」「②さばき」「③王国」……「再臨」→「①前兆」「②主の日とは」「③再臨の瞬間」のようなものです。

このようにキーワードをピックアップし、構造化していきます。聖書全体の一貫した項目を整理していき、その結果として、携挙とは何かを精査していきます。

気をつける点

以下、気をつけるポイントを決めます。①反論としての説明をしない、②テーマで語らない、③これこそ正しいと言わない、④聖霊を求める。

反論としての説明をしない

最近、患難前携挙についての反論記事を見かけるようになりました。ただ、内容を読むと「携挙信者はこういうが、それは間違ってる。なぜなら、こうでこうで」と、患難前携挙説を信じる人たちの主張に対する反論で終わっています。

これは、Aではないので、もう片方の説であるBが正しい、という代替案の出し方です。しかし、Aではなかったとしても、Bでもないかもしれません。

また、たまに、その反論する元となっている意見の内容も、患難前携挙説を信じる人たちの一部で噂されている、「ああかも?こうかも?」と言った、仮説への反論だったりもします。

仮説はあくまで仮説で、それを潰したからと言って、イコール患難前携挙説が間違っているという理由にはなりません。一部のトンデモが、トンデモだったということを解説したにすぎません。

反論記事が有益ではない、ということではありません。それもまた、必要な論点ではありますが、「聖書は何を意図しているか」を精査する上では、あまり重要ではない、ということです。

テーマで語らない

これもよくあるのですが、「携挙は前なのか後なのか?」というタイミングだけを取り上げる議論です。

この研究も、結果的にそこへ言及していきます。しかし、あくまで結果的にタイミングも突き止めていくというだけで、そこら周辺をひたすらくまなく調べるというわけではありません。

タイミングだけ調べても、他の聖句を調べていくと、そのタイミングについても、何か解釈ミスが起きている可能性もあるかもしれません。

あくまで「聖書全体を理解する」、その過程で、結論が出ていく、という流れをつくります。

もちろん、テーマで語ることは有益で、わかりやすく、理解しやすいものではありますが、今回の目的を達成するためには、できるだけこのやり方は避けたいと思います。

ただ、反論、テーマで語ることも「あえて」するかもしれません。そこを求められていることもあるからです。

これこそが正しいと言わない

これは態度についての話です。また、私自身のこの活動をしていく上での戒めとしてあえてここに書いておきます。

聖書全体を読んで、確信したことを伝えていくと書きました。しかし、伝えていく上で、よく問題となるのは、「解釈はひとつだ。そして、私の解釈こそが正しいので、あなたは無批判にこれを受け入れるべきだ」という態度で、いわゆる教義の押し付けをしてしまうことです。

自分が見出した教義を、みんなも同じように信じなさい、となるとただの押し付けです。なぜ、このような態度がいけないのかということを以下、説明します。

まず、鵜呑みにさせることが問題だということです。散々「客観的に理解してもらう」ということを理念として、この研究を始めたと言ってきたのにも関わらず、「いいからとにかく信じろ!」となっては、ただの鵜呑み。客観性のかけらもありません。本末転倒です。

解釈をめぐる際には、なぜ僕がそのように解釈したのか、確信したのかを聖句から提示して、相手に考えてもらう行程を必ずつくる必要があります。鵜呑みにしてもらうのではなく、納得してもらうようにするべきだと思います。時間はかかりますが、確実に納得してもらうことが最優先かと思われます。

また、「私の解釈は完璧だ」という態度の問題です。どんなに論理的に説明でき、まるで正しい解釈のように思えるほどまで達することができたとしても、限界があります。確かに曖昧さが残っているとわかっていて、「まぁ間違いもあるよ〜」という適当なスタンスだと問題ありますが、どんなに入念に精査してもやはり抜け目があることは、いつも念頭におくべきかと思います。

本当に何一つかけたところのない理解に及んでいるなら別ですが、もし一点でも欠けがあり、また見事に指摘されたのであれば、洞察力を存分に生かして、自分の過ちに気づくべきかと思います。

なので、伝えるときは確信を持って伝えますが、仮に、鋭い質問や批判があれば、間違っている可能性を残しつつ、議論をしていく必要が生じると思います。

また、今回はあくまで「聖書は何を意図しているか」をスタンスとして解釈していきます。いわゆる「聖書のみ」をできるだけ心がけています。つまり、それ以外には言及していません。

聖書は科学をしていませんし、脳の仕組みについても医療の細かな方法論も語っていません。世界の知識の一部です。(世界の真理の核であることはその通りですが)これを知ったからと言って、世界の全てを知ったような壮大な高ぶりはやはり避けるべきかと思います。

ついでの話ですが、議論が苦手な方もいるので、そういう方にも配慮をする必要があります。大切なのは、相手との適切なコミュニケーションを心がけること。相手に合わせて、講義なのか、議論なのか、または対話なのかを決めていくことが大切かと思います。

「間違ってるかも?」という中途半端な態度でも問題がありますが、「これこそ100%正しい」という態度でも問題がありそうです。

確信を持って話す。しかし、質問や批判は謙虚に受け止めていきます。

聖霊を求める

"私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。"
テモテへの手紙 第二 2章7節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

青年テモテに対して、パウロは「すべてのことについて理解する」ことを期待しています。つまり、できるということです。

どこまでも、自分の理解力は乏しいということを認めること。ハーバード大学のトップの知能をもってたとしても、恐らく、神の知識を完全に理解することはできないと思います。聖霊なしでは。

漁師ペテロが教会の基となり、聖霊を受けたとき、確信を持って福音を語ったことを、まず第一にすることを覚えたいです。

"いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。"
コリント人への手紙 第一 2章11節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会


まとめ

とにかく、やってみます。

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