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刺されたときの話をしよう。

突然ですが、私は見ず知らずの人に刺されたことがあります。

それは約10年前のこと。生きるか死ぬか、ドラムロールが鳴り響く。

結果、今もこうして元気に生きているのでお察しいただければと思いますが、どうしてこんなことが起きたのか、10年前のことをなぜ今お伝えするに至ったのか。

順を追って、できるだけリズミカルに書いていこうと思います。

私は昔から死にたい人間でした。

こう言うと、後ろの壁を突き抜けて姿が米粒程度の大きさになるまで引かれるのですが。ドン引き中のドン引き。

何を隠そう、私は死にたい人間でしたし、今だってできれば死にたいです。

でも、生きていますし、自ら死ぬ行為は行わないというルールを持つことにしたので、この寿命を全うするまで、ワクワクしながら待っているという状態にいます。

なぜ死にたいのかはまた別の機会にと思いますが、とにかく高校生の頃に「死にたさ」が芽生え、でも「そんな想いを持つことはいけないこと」と思い込み、はざまでずいぶんと苦しんでおりました。

死にたいと思っているうちは死ねない

死にたい死にたいと毎日思いながら、死んだように生きる日々はずいぶんと暗い場所を歩いていたように思います。

そして自ら引き寄せるように、見ず知らずの男はたまたま目の前にいた私のことを強盗目的で襲い、抵抗する私ともみ合いになり、腕を切り、腹を刺すという事態へと発展しました。

腹を刺されてしばらく、突然力が抜けて私はその場に倒れこみ、犯人は逃走。人通りの少ない道だったので通行人はいません。

「やっと死ぬタイミングが来た」とぼんやり最期を味わっていると、幸か不幸か通行人が私に気が付き、警察や救急車を呼び、私は生き延びることとなりました。

検査や緊急手術を経て病室で目を覚ました時、喜ぶ家族を裏切るように、私はただ悲しくて絶望していました。

しかしその後、カウンセリングを受け、ヨガやこの世界の本質を学ぶにつれて、なぜ生きるのか、どうして死なないのかがわかっていくのです。

ざっくりいうと、この世界に起こることすべてに意味があり、必然であり必要なことなのだということ。この世に存在するものには使命があって、生きるも死ぬも、そのとき必然であり使命があってそうなるということ。

そして、生きるも死ぬも、寝るも起きるも食べるも歩くもすべて自分が選択した結果の出来事であるということ。

そうだとするならば、私はまだ生きる世界にいる必要があって、生かされているとわかり、死にたいと言いながらも心の奥深くでは「生きる」選択をしているということ。

「生きたい」という想い。今までとまるで反対の気持ちがあることに絶望はしたものの、何か力が抜けたような楽になったような。

ああ、これは死にたいと言っているうちは死ねないなと半ば諦め、だったら生きているうちは楽しもうと開き直るようになったのはここ数年の事。

死ぬを目の前に持ってこないとわからなかった、それだけ私は鈍感だったのだなと。ちょって恥ずかしくなったりして。

"事件被害者"になってよかったこと

実は、これを書こうと思う背景に、"被害者支援"に関わる方々の存在があります。

私が被害に遭って苦しくて泣いているとき、必要なサポートがそこにはありました。

被害に遭うなんて初めてで、右も左もわからないのに、どんどんと手続きが進んでいくのです。

事件に関しては警察調書、現場再現、検察調書、裁判参加・・・

仕事やプライベートにも支障がでました。まずけがをして働けず、治っても事件のフラッシュバックなど精神的なショックで働けない。対人関係にも変化があり、一人でできることにも一時的に制限がでました。

そうして困っているときに、専門的な方が隣で付き添ってくれたり、カウンセリングをしてくれたり、とにかく心身のストレスを緩和してくれる存在がいました。

それは、とても貴重でありがたい存在なのだと知ったのは事件もひと段落したころのこと。苦しみを味わいつくした過去の被害者や関係者たちが必死に訴えて獲得してきた結果だということを、支援の方々から聞かせてもらったのです。

裁判で、被害者は単なる証拠という扱いから、参加者としての地位を。

生活面では行政が被害者の生活立て直しに対する支援体制を。

このような経験や歴史について、知らずに生きていけた方が平穏で幸せなのかもしれない。

でも私はこの経験をしたからこそ、歴史を知り、関わる人に出会い、よりよい支援体制を確立するための手伝いができました。

そして何より、自分自身の生き方、在り方について、深く向き合うきっかけになったと思っているのです。

自分と向き合わざるを得ない状況に追い込まれ、自分で這い上がるしかない現実を突きつけられました。

それはそれは大変な道のりだったけれど、ここまで来てみると

「自分、よくやったじゃん!」

と褒めてあげてもいいかなんて思えるようになりました。

事件の被害になんて遭わないに越したことはない。でも自分と向き合うタイミングは誰にでもやってくる

自分と向き合うこと。

たまたま私には、事件被害というイベントがきっかけになりましたが、誰にでも自分と向き合わないといけないタイミングはやってくるのではないかなと思う。より良い人生を歩むためにきっと必要だと思うから。

例えば学生時代に進路を決めるとき。就職活動をしているとき。転職したくなったとき。結婚を考えたとき。子供が生まれたとき。大切な人が亡くなったとき。

他にもたくさんのきっかけがあって、その人次第でどう受け止めるかどうかとは思うけど。

私の場合、進路決めも就活もぼーっとしながら過ごしていたから、神様(というか心の奥深くの私)「こいつわかりやすいショックがないと変わらんな」って呆れて事件に巻き込んだのかもしれない。

事件はもう10年前になりました。これからもう少し細かく書いてまとめて、昇華させてあげようと思います。

時にはドラマチックに、時にロマンチックに。

デリケートな内容にもなるので多少色を付けての表現にはなります。

日常のちょっとしたタイミングに、面白おかしく読んでもらえれば幸いです。




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