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福永祐一の東京優駿20年物語

デビュー3年目、憧れのダービー初騎乗で2番人気を背負う。当時はまだG1勝利の経験がなかった。それでもファンは推した。キングヘイローの実力そのものの評価もあったのだろうが、それよりも天才ジョッキーの息子の大成を昭和のファンたちは後押しをした。

天才2世の若手ジョッキーが世界的良血馬に跨って栄光へ。こんな号泣もののストーリーが仕立てられていたかどうかは知らないが、それとは裏腹にレースでは意図せぬまさかの大逃亡。初めての大舞台は14着に沈み、ほろ苦い記憶となった。

福永祐一。通算勝利数歴代4位、全国リーディング2回、そして東京優駿3勝。2023年2月、調教師転身のためムチを置く男は終わってみればJRA史上の残る輝かしい成績を残し、騎手デビュー当初の過大すぎるほどだった周囲の期待、それ以上のキャリアを築いた。しかしその道のりは果てしなく厳しいものだった。

1998年日本ダービー。レース後、顔面蒼白の状態で検量室に戻った祐一は、かつて自身が騎手を志す最大のキッカケとなった、高級車を乗り回しアイドルと付き合っている近所のお兄ちゃんの初戴冠の表彰式を目の当たりにする。

いつかは自分も。

福永家の悲願だった東京優駿の頂。その栄光を掴み取ったのはこの時から20年が経過した後になるのだが、そんな歴史的ジョッキーの優駿獲得物語を振り返る。

1999 はじめの一歩(騎乗馬なし)

小倉での落馬事故で腎臓摘出するほどの大怪我を負った影響もあり、この年の牡馬クラシックはほぼ不参加。菊花賞で岡部の代わりにシンボリモンソーで騎乗した程度。しかしこの年、祐一は念願のG1初制覇を成し遂げた。

プリモディーネで桜花賞制覇。スティンガー、トゥザヴィクトリー、フサイチエアデールなど強力なサンデーサイレンス産駒が集結した骨のある世代だったが得意な形に持ち込みキレのある末脚を炸裂させて桜の女王に導いた。

勝利ジョッキーインタビュー。桜花賞を複数回制した父親の話題はもちろん挙がってしまう。しかしここは「親父、いっぱい勝ってるんで」と大人の対応に終始する。デビュー当時から何かにつけて父親の話を絡ませた取材が増えて、内心ウンザリしているのだろうなと思っていたがそこはもう宿命と割り切ったのか。自分の努力だけではどうしようもないものに対しての諦念はこの時から身についてたものだったか。

何はともあれ、これでG1ジョッキーの仲間入りを果たしてトップジョッキーに向けて大きな一歩を踏んだ。

そして暮れには自厩舎のエイシンプレストンで朝日杯を制覇。ヒヤリとした小倉での落馬事故は母親を卒倒寸前まで至らせたそうだが、飛躍を感じさせる一年となった。

2000 進撃の同期(マルカミラー:17着)

エイシンプレストンが早々とマイル戦線に舞台を絞り込んだこともあり、この年は騎乗馬が不在だったはずが、寸前で騎乗依頼をもらったマルカミラーで参戦。着外での惨敗となったわけだが、2歳戦の段階でお手馬を絞り込んで、レースを教えながらクラシックに参戦する、というスキームにはジョッキーとしてまだ早い年齢でもあるのでスポット騎乗と言っても、騎乗回数を重ねることは良いことでもあった。18人しか騎乗できない東京優駿。まずは毎年、その18人の中に入ることが大事だった。

そしてこの年はなんと言っても花の12期生の同期、和田竜二である。世紀末の覇者(テイエムオペラオー)のヤネとして前人未到の古馬王道路線完全制覇。今では大阪杯が加わったとはいえ、現在でもこの偉業を達成した馬は他におらず、まさに和田は時代を謳歌していた。

花の12期生はエピソードを聞く限りにおいては比較的仲は良好な感じが見受けられる。ただこの当時は互いの接し方には少しギクシャクしたものがあったとも推測される。スポットライトを浴び続ける同期を応援しつつも複雑な心境で活躍を外から見ていたであろう祐一、常に一番人気を背負わされてレースでは先輩騎手からの執拗な嫌がらせのターゲットになり続けた、時の人・和田。表彰式での「Thank you very much!!」やアントニオ猪木のモノマネなどの和田の振る舞いには正直、心療内科でのカウンセラーが必要なくらいには精神が壊れかけていたとも思う。苦しみを相談できる相手が見つからず悲痛の叫びをパフォーマンスで消化させるしかなかった和田。もし相談されてもキングヘイローの話しかできない祐一。すごく近いようでいてとても遠い存在。これらを共有するのは二人ともあまりにもまだ若すぎた。

思えば前年の桜花賞制覇。翌週には和田もG1勝利を果たしていた事実は見逃せない。ほんの一週間のタッチの差で同期のG1初勝利という面目は保てたが、これも和田に一歩先を越されてたら現在の両者の地位にも少しの変化はあったのだろうか。

2001 お手馬の確立を(プレシャスソング:8着)

皐月賞で騎乗馬はいなかったが、自らの腕で青葉賞で優先出走権を獲得させたプレシャスソングで参戦。毎年、ダービーに乗る18人になることが大事だと言ったが、それに加えてできればスポット騎乗ではなく、自分の馬を自分の騎乗で出走権を獲得させることも毎年の目標にしたい。テン乗りでのダービー制覇はかなりの希少例。なので皐月賞トライアルが開催される前後くらいにはその年に自身でクラシックに臨む馬を決定している流れが理想だ。

この年、JRAでのG1制覇は叶わなかったが、暮れにエイシンプレストンで大仕事を成し遂げる。香港マイル制覇。キャリア中堅に差し掛かるまで祐一の印象を植え付けたエイシンの勝負服と香港での異常な知名度は、まさにエイシンプレストンと歩んだ軌跡でもあった。翌年以降もこのコンビは香港で暴れ回る。

2002 見え始めたクラシックの光(騎乗馬なし)

お手馬だった自厩舎のゼンノカルナックで挑むはずだったが賞金不足で出走できず。スポット騎乗も依頼がなかったのか。この年のダービーデイは中京で過ごすことになる。過去3年、祐一は年間リーディングではトップ10前後に位置する成績を残してしたが、ダービーで一発を狙いたい伏兵馬陣営にとっては経験のあるベテラン騎手を起用するのは当然のことなのかもしれない。

後年、祐一はダービー当日を他場で迎えることに対する虚しさを吐露していた。ダービーを場内映像で見た後、「自分は何をしているんだ」という気持ちになるのだという。そして「来年は絶対にあそこで乗る」と決意が強くなるとも語っていた。

そしてその決意の強さを証明するのにそれほど時間はかからなかった。なんと暮れに牡牝両方の2歳G1を制覇。特に牝馬のピースオブワールドは圧倒的な実力を見せつけての勝利。牡馬でもエイシンチャンプが低評価を覆す粘りの勝利を挙げ、祐一は翌年のクラシックを有力馬で臨めることが濃厚になった。この時点で既にダービー出走に必要な賞金を確保したこともあって、今後はその大一番から逆算したローテーションや騎乗ができることもプラス材料となった。

しかしこの時の祐一には自分が乗って勝った新馬戦の実績しかない、ある馬のことが気になっていた。

2003 自ら手放したチャンス(エイシンチャンプ:10着)

年明け、祐一の元に激震が走る。ピースオブワールドが調教中に骨折。春の牝馬クラシック出走がほぼ絶望になった。
いやそれよりも祐一にとっては牡馬クラシックである。きさらぎ賞をネオユニヴァースで勝利。これが悩ましい事態を招いた。

祐一には既に2歳G1を勝ったエイシンチャンプというお手馬がいた。
しかし血統面やきさらぎ賞の勝ちっぷりを踏まえるとダービー勝利の確率はネオユニヴァースの方が高いと祐一は踏んでいた。
両馬はともに瀬戸口勉厩舎の管理馬。陣営からは「好きな方を選んでいいよ」と言われていたが、最終的に祐一が選んだのは強いと思ったネオユニヴァースではなく、エイシンチャンプだった。理由は「先に騎乗依頼をもらって、それを承諾していたから」だった。

ここに良くも悪くも祐一のクオリティが出ている。選ぼうと思えば乗りたい方を選べたはずなのに義理や情を優先して自分に不利な決断を下してしまうのだ。
これは後述のラインクラフトや五十嵐冬樹への福島行け事件からの福島参戦につながっていくこととなる。若手から中堅時代にかけて、目先の自分の利益を犠牲することで得た信頼が長い目で見て後の自分の騎手キャリアの大成功を生んだ側面はあるのかもしれないし、人間的にこのような姿勢は立派だと思うが、東京優駿物語の完成が20年もかかってしまった要因の一つにはなった。

これでネオユニヴァースの鞍上は当時、外国人騎手として短期免許で来日中だったミルコ・デムーロに決まった。
ミルコが乗ったネオユニヴァースは春のクラシックを席巻。皐月賞、ダービーの2冠を獲得して、その勢いのまま宝塚記念にも参戦し、完全にこの年の春の主役となった。
悪天候の府中、重馬場に足をとられて馬群に沈むエイシンチャンプの背中から、インコースを颯爽に駆け抜けていくネオユニヴァースの後ろ姿を祐一はどのような思いで眺めていたのだろうか。

イタリアのダービーを5回勝つより、日本のダービーを1回勝つ方が嬉しい。

自らの手で獲得できたかもしれない最大のチャンスを自らの決断で手放した祐一にとって、歓喜の涙を流しながら口にしたミルコの上記の言葉はとてつもなく重かったであろう。

時は流れて2018年。祐一がダービージョッキーとして検量室に戻ってきた際、満面の笑顔で真っ先に祐一を祝福しにきたのはミルコだった。自分がなぜダービーでネオユニヴァースに騎乗できたのか。おそらくミルコはその経緯を知っていただろうし、その決断を下した祐一のことをずっと気にかけてたのかもしれない。

2004 栄光への布石(メイショウムネノリ:17着)

この年はお手馬を確保できず、スポット騎乗でメイショウムネノリで参戦。マイネルマクロスによる殺人的なハイペースに消耗して大差負けとなった。

しかし一方で2018年の布石となる年でもあった。

毎日杯でこの年のダービーを勝つことになるキングカメハメハに騎乗して勝利したのだ。キッカケは主戦騎手だった安藤勝己がアドマイヤドンでドバイワールドカップに参戦するための代打騎乗依頼だった。これで前年のネオユニヴァースに続き、2年連続で後にダービーを勝つ馬の背中を経験できた。
祐一はいつだったか、何かのインタビューでこのキングカメハメハの騎乗経験がその後の自身の騎乗スキル向上にすごく活きたと語っていた。
この時にできたキングカメハメハとの縁は、2018年に母の父という形で結実することになる。父・洋一が毎日杯の落馬事故で騎手生命を絶たれてダービーを勝てなかったのに対して、祐一はこの毎日杯がキッカケで後のダービー勝利の糸口を掴んでいったのはどんな因果だろうか。

そして布石はもう一つあった。

オークスをダイワエルシエーロで制した。ダンスインザムードやスイープトウショウなど、後の古馬戦線で一級線の牡馬たちとしのぎを削り合うことになる強力馬を相手に、東京2400mのレースで外枠の馬を積極的な先行策を駆使し池添謙一が騎乗した有力馬の末脚を抑えて勝利、とまるで2018年のリハーサルとなるようなレースを展開した。この騎乗が後の栄光をもたらす下敷きとなったことはこの時は誰も知らない。もちろん祐一本人も。

2005 再び訪れた決断の時(アドマイヤフジ:4着)

この年の牡馬クラシックはまさにディープインパクト一色だった。祐一は武豊のお手馬だったアドマイヤフジで参戦。自身初のダービー掲示板着順という結果をもたらすも相手が悪すぎた。

そして今回は牝馬クラシックであるものの、祐一はまたも決断を迫られる年となった。ラインクラフトとシーザリオ。世代の主役候補となる2頭のお手馬がいた。
蘇るはネオユニヴァースの記憶。今度はどちらでクラシックを臨むのか。桜花賞直前に祐一の下した選択の決め手は「強い方」ではなく、再び「先に騎乗依頼をもらった方」だった。

桜花賞でラインクラフトに騎乗することになった祐一は、標的をシーザリオに完全に絞り込む。

「普通にレースしたら向こう(シーザリオ)の方が強い」

末脚勝負になったら分が悪い。標的の背中を知る祐一がとった戦法は外枠ながら先行策をとり、シーザリオにかわされる前にゴール板を駆け抜けることだった。
レースは思惑通りに進む。4番手の位置につけたラインクラフトは直線に向いてからスパートをかけて先頭に躍り出る。後方待機から末脚を爆発させたシーザリオはラインクラフトを猛追。デアリングハートも含めた3頭の激しいデッドヒートの行方は、わずかアタマ一つだけ前にゴール板を駆け抜けたラインクラフトに軍配が上がった。

人生は選択の連続である。選択した先にはまた別の選択肢が待っており、基本的に立ち止まることは許されず、時間の経過に背中を押されるように、次へ次へと選択を迫られる。
振り返ることはできても差し戻すことはできない。「あの時、もし別の選択をしていたら??」。良いことがあっても悪いことがあっても、人は自分には別の人生があったのでは、と思う生き物だ。

その都度強いられる選択が最終的に正解だったか不正解だったかは誰もわからない。そもそも正解そのものすらないのだから。ならば学校のテストのように「正解を選ぶ」という作業ではなく、「選んだ選択肢を自分の力で正解にしてしまう」というやり方が最適解なのかもしれない。

祐一は今回も義理と情で騎乗馬を選んだ。これは、自分の選んだ馬で勝つしかない、という考えに殉ずる覚悟の表れであった。そして打ち勝った。同時にそれはネオユニヴァースを手放した歴史的決断を更新させた勲章でもあった。

以降、ラインクラフトはマイル路線を歩み、シーザリオの手綱は祐一の手に戻る。NHKマイルカップ優勝、日米オークス制覇。これがブースターとなったのか、祐一はここから数年の牝馬G1で幾度となく存在感を放つことになる。

2006 一勝か一生か(マルカシェンク:4着)

この年、祐一はそのキングヘイロー以来となる、ダービーでの勝利を強く意識できるお手馬で参戦することになる。

はずだった。

いや、はずだったのではなく、本当に参戦した。結果は4着と有力馬と目されていた中では勝てはしなかったがまずまずの着順ではある。

しかしダービー当日を万全の状態で迎えられていたら結果はもっといいものになっていたはずだった。祐一はきっとやり場のない虚しさでこの結果を受け止めていたのかもしれない。

祐一のお手馬、マルカシェンクは2歳の時点においては牡馬クラシックの最有力候補であった。新馬 → デイリー杯(G2) → 京都2歳ステークス(OP)を全て単勝1倍台に支持された中で快勝した。しかし暮れのラジオたんぱ杯(当時G3)に向けての調整中に骨折が判明。休養を余儀なくされた。

2歳の時点でオープンと重賞を勝って賞金を十分に満たした馬を同年内の重賞に出走させるローテーションは明らかにハードだった。本番は翌春のクラシックのはずだ。無理に出走して賞金を狙いにいかなければならない状況ではなかった。

しかしこの時は、馬の事情とは関係のないところで世界は動いていた。マルカシェンクを管理する瀬戸口勉調教師は定年による調教師引退が2007年春に控えていた。そしてマルカシェンクがデビューした2005年秋、瀬戸口は全国リーディングのトレーナー部門でトップを走っていたのだ。

定年前に全国リーディングのタイトルを。

終盤にかけて美浦の常勝、藤澤和雄の猛烈な追い上げの足音が大きくなっていく中、瀬戸口は自身初の全国リーディングのタイトルを確実なものにすべく、当時出走すれば勝利がそれなりに計算できたマルカシェンクの出走に大きくこだわっていたのだ。

代償を払ったのは祐一だった。

瀬戸口は自身の望み通り、2005年に全国リーディングを獲得。そしてその翌年の日本ダービーで自身の管理馬であるメイショウサムソンで勝利。厩舎の本命馬であったマルカシェンクは順調さを欠いたことで4着に終わるも、自身最後となるダービー挑戦を見事に飾ったのだった。

祐一はまたも瀬戸口厩舎の片方にダービーの栄光が輝く瞬間を目の当たりにされた。ただネオユニヴァースの時と違うのは瀬戸口厩舎の「強い方」でこの時のダービーを参戦したはずだったのだ。口取り写真に映る笑顔の瀬戸口調教師。その横にいたのは石橋守ではなく、本当は自分だったのではと眠れない日々を過ごしたことだろう。

2010年以降、自身も騎手部門で全国リーディングのトップ争いの常連になった祐一は、目先の勝利と馬のキャリアのどちらを取るのか苦悩し、葛藤した時期があることを告白していた。

その馬の今後を考えて目の前の勝利を犠牲にしてでもレースの中でいろいろなことを教えたい。だけど自分もリーディングが欲しいから騎乗馬の教育よりも自分の勝利を優先したくなる悩みは常にあった。

今なら、あの時の瀬戸口の気持ちもわかる。目先の自分のための一勝か、それとも馬のための一生か。永遠に答えのない問いに初めて向き合った。祐一にとって2006年はそういう年だったのかもしれない。

2007 独り立ち(アサクサキングス:2着)

ダービー初騎乗以降で最高着順となる2着。外枠ながら腹を括って逃げ粘った。目星となるお手馬がいない中でのスポット騎乗になったが、いよいよ頂点の景色がうっすらと見えるところまではたどり着いてきたのかもしれない。

ただローブデコルテでオークスを勝った際に「もしウオッカが出てたら勝てなかっただろう」とイジられた翌週に「ウオッカが出てたから」ダービーを逃すのだからこの流れは当時の祐一らしいと言えば、らしい。笑

前述の通り、この年の春に瀬戸口勉調教師が定年による引退。前年には所属厩舎だった北橋修二調教師も引退しており、デビュー当時から敷かれてた手厚いサポート体制がなくなったことで自立が求められた。

この時期からだっただろうか。騎乗スタイルや身体の使い方を改善するために個別に専門家と契約し、様々な理論をベースに競馬というスポーツへのアプローチを取り組み始めた。

祐一はここから数年、特に牡馬の王道G1の勝利から見放されることになる。ただそれは、赤いレンガを横に積んでいく作業に着手していたためである。いつかレンガを縦に高く積み上げても倒れない頑丈な建物を建造するための、いわば土台作りの時期でもあった。

2008 1,000個の積み重ね(モンテクリスエス:16着)

この年のG1勝利はなし。高松宮記念でスズカフェニックスで1番人気に押されたり、ムードインディゴで牝馬クラシックを盛り上げたが、結果には結びつかなかった。ダービーは青葉賞3着で何とか権利を確保したモンテクリスエスで参戦。圧倒的本命馬不在のこの年はどの馬にもチャンスがあり、ダート馬のサクセスブロッケンが急遽出走を決めるほどであったが、そう簡単にはいかなかった。ダート馬といえば、この年の皐月賞で祐一が騎乗したのがスマートファルコンだったことを知る人はあまりいないかもしれない。

ダービーは前年に引き続き、四位洋文が勝利。角田晃一がジャングルポケットで勝利して以降、四位はどのメディアでも「俺もダービー勝ちたいなぁ」とまるで言霊のように繰り返し口にしていた。口にしてたらダービーを勝った四位に影響されたか、祐一もこの頃からメディアでダービー勝利の憧れを隠さないようになっていった。

G1勝利のなかった年といっても、年間を通した勝ち鞍は安定していた。12月にはJRA通算1000勝を達成。その達成の際の騎乗馬は藤原英昭厩舎所属だった。

「自分の中で何を変えたいと思って、藤原厩舎の門を叩いた」

後ろ盾がなくなり、自立を模索しながらもがき続けていた当時のこと。後に大きな結束を固めることとなる藤原厩舎との絆はこの時から始まっていた。

2009 それぞれの生き様(セイウンワンダー:13着)

この年のダービーは前年の2歳王者・セイウンワンダーで挑んだ。しかし元々は祐一のお手馬ではなく、岩田康誠が乗っていた。

この当時の、牡馬クラシックの乗り馬を巡った岩田の振る舞いは祐一のそれとは正反対のもので個人的にけっこう笑ってしまった。おそらく朝日杯を勝った時点で、岩田はセイウンワンダーでクラシックに臨むことがほぼ確定していたのだろう。それは3歳初戦の弥生賞で岩田が乗ってたことを見ても予想はできる。

ただスプリングSでアンライバルドが強烈な勝ち方をして以降は、メディアでたびたび「どちらに乗りたいかは自分の中でハッキリしている」、「もうあとは希望通りになることを祈る」というような趣旨の発言をしており、固有名詞こそ出さなかったが、アンライバルドに乗りたがっていることだけは明らかだった。

日本の古き良き伝統社会においては、エイシンチャンプを選んだ祐一の態度の方が好まれるだろうが、岩田のような振る舞いもムラ社会での好き嫌いははっきりとわかれるだろうが、プロとしては当たり前のものだ。この両者の生き様を巡る戦いは数年後、リーディング争いという名の下で戦争が勃発することになる。

そして自分の振る舞いはキャリア終盤で自分に跳ね返ってくることもまた事実だ。年間勝利数が減り始めた岩田、引退寸前まで年間100勝できるほどの騎乗依頼を貰い続けていた祐一。もしあの時、祐一がいろいろな人を敵に回す覚悟でネオユニヴァースを選択していたらどうなっていたのか、という世界線は少し見てみたかった思いはある。笑

2010 悲しみを乗り越えて(リルダヴァル:12着)

空前絶後の盛り上がりを見せたこの年の牡馬クラシック。後にドバイから凱旋帰国することになるヴィクトワールピサ、バラ一族の御曹司にして2歳王者のローズキングダムとこの秋に3歳で古馬を蹴散らすことになる両馬を筆頭に実力馬が多数揃った。リルダヴァルも例年なら有力馬の一頭に数えられるくらいの実力を有していたが、生まれた時代が悪かった。

勝ったエイシンフラッシュは、祐一がフリー転身後に師事してきた藤原英昭厩舎の管理馬である。祐一も同馬の2歳時に2戦ほど手綱を取り、古馬になってから毎日王冠を勝ったが、クラシックでの主戦騎手は内田博幸に決まった。このあたりはどのような経緯で主戦騎手が決定したのかは不明だが、祐一がエイシンフラッシュでクラシックに臨んでた可能性もゼロではなさそうで、ここでも祐一は唇を噛み締めたのかもしれない。

藤原厩舎にとっては悲しみを乗り越えてのダービー制覇だった。この年の毎日杯で期待馬の一頭だったザタイキがレース中の事故で予後不良の処置が取られた。騎乗した武豊もその際の落馬で大怪我を負い、この年のダービーの騎乗が不可能になり、その後の低迷期を過ごす遠因となった。

そしてダービー前日の金鯱賞ではタスカータソルテがこれもレース中の故障で予後不良の処置がとられた。エイジアンウインズが厩舎初のG1勝利をもたらすまで、黎明期の藤原厩舎を盛り上げ続けたタスカータソルテとの別れはあまりにもツラすぎた。そんな悲しい2つの出来事を経てたどり着いたダービーの栄光だった。

ダービー勝利後、優勝調教師としてメディアの前に立った藤原調教師の口から出た言葉は、厩舎初のダービー勝利を喜ぶものではなく、自厩舎の管理馬の悲劇を嘆くものでもなく、自身の騎乗依頼をキッカケに大怪我を負ってしまったある騎手に向けてのものだった。

今度は武豊のいるダービーで優勝したい。

この言葉は、2021年に福永祐一を背中に乗せて現実のものとなる。

2011 渡された次世代へのバトン(ユニバーサルバンク:10着)

なかなか2歳戦からお手馬を決めて、レースを教えながらクラシックを迎えるという流れが滞り始めたここ数年。祐一本人にも焦りはあったのだろうが、それに輪をかける年となった。

この年はついに後輩に先にダービーを勝たれた。池添謙一騎乗のオルフェーヴルは土砂降りの不良馬場をもろともしない剛脚を披露し、皐月賞に続く2冠を達成。秋もその勢いで菊花賞を制して3冠馬に。そして有馬記念も勝ち、堂々の年度代表馬に輝いた。

これまでのダービーは祐一にとって、自分より年上のジョッキーたちがやっとの苦労の日々の末に栄冠が輝くイメージがあっただろう。いつの間にか年下が勝つくらいの年齢、キャリアを重ねていたことを突きつけられたのではないか。レース後、ずぶ濡れの勝負服のまま家族と感動の抱擁を交わす池添の姿を祐一はどのように見ていたのだろう。ダービーに順番なんてものはない。勝てる時に勝たなきゃいけない。そんな思いを強くしたと想像する。

牡馬クラシックではなかなか光が見えない時を過ごしたが、ジョッキーとしてのスキルの向上は年間成績によって証明することとなる。この年、祐一は念願の全国リーディングのタイトルを獲得する。岩田康誠とのデットヒートを僅差で制した。

東日本大地震が発生したこの年、競馬界も大きく揺れ動いた。

ダービーだけではなく全国リーディングでも次世代のジョッキーたちの躍進が見られたのだ。前年に全国リーディングのトップ10に入っていた柴田善臣、藤田伸二、後藤浩輝ら、祐一よりも年上のジョッキーたちがこの年トップ10から漏れ、祐一より年下である浜中俊、田辺裕信、川須栄彦がトップ10入りを果たした。

そしてなんと言っても武豊である。

前述の毎日杯の落馬で2010年の騎乗機会は限られたものの、復帰したこの年の成績は年間を通じた騎乗をしながらも64勝。全国リーディングでは16位という結果だった。2009年に内田博幸にわずかの差で全国リーディングの座を奪われたとはいえ、フランスに拠点を置いていた2001年を除き、およそ16年連続で全国リーディングのトップに君臨していた史上最高の天才ジョッキーの成績降下は時代が動き出していることを如実に反映していた。

この頃だろうか。G1シーズンになると短期免許で一流の外国人ジョッキーたちが来日し、主要レースで有力馬に騎乗して勝利を重ねていくケースが多く見られた。所有馬にレースを覚えさせたり、競走馬としての成熟していく過程は物言わぬ日本人ジョッキーに任せて、獲得したいG1レースには満を持して外国人ジョッキーを乗せる。そんな馬主や生産者が増えてくる流れで、有力馬陣営はベテランジョッキーへの騎乗依頼を敬遠していった。

そうして、日本競馬界はポスト武豊時代へ向かっていくことになる。

2012 運と執念(ワールドエース:4着)

この年、祐一は初めて1番人気を背負ってダービーに挑んだ。きさらぎ賞と若葉ステークスをスケールのある走りで勝利し、2着に敗れたとはいえ大外から剛脚を披露した皐月賞の内容が評価され、多くのファンはワールドエースに一番重い印を打った。

祐一の騎乗に瑕疵は見られなかった。基本的に後ろからいく戦法しかとれないワールドエースにとって、あの乗り方でしか実力は発揮できないのだ。事実、密着マークを仕掛けてきた皐月賞馬・ゴールドシップにはきちんと先着している。不運だったのはこの日の府中の馬場は前が止まらないほど、パンパンの良馬場だった。先着を許した3頭は全てワールドエースよりも前にいた馬たちだ。特にやや早めのペースで2番手を追走していた僚馬・トーセンホマレボシすら交わしきれなかった展開面には大いに泣かされた。

2020年にコントレイルでダービーを制した際、祐一はダービー当日の午前中に局所的に強めの雨が降り、馬場状態が湿って差し馬有利の馬場に変わったことを「本当にラッキーだった」と語ったのは、まさにこの時の苦い経験があったからだろう。

繰り返しになるが、祐一の騎乗自体にミスはなかった。あの馬場状態と展開では何度タイムリープしてもワールドエースには勝てるチャンスがなかっただろう。足りなかったのは運。で片づけることもできたが、この時の勝ち馬を見たらそう言ってばかりもいられない。

勝ち馬となったディープブリランテは世代トップの能力の持ち主と認められながら、前向きすぎる気性が災いしてイマイチ勝ちきれないレースが続いていた。スタミナ面と気性面の両方を鑑みた際におそらく適距離は1800m前後で、とてもじゃないが2400mなんて保つわけがないと目されていた。そんな馬を栄冠に導いたのは、何とか2400mを走れる身体に仕上げた矢作厩舎の努力と、直線で先頭になってからとにかく押して押して押しまくって後続馬にかわされないままゴール板を駆け抜けさせた岩田康誠の執念の騎乗だった。

岩田はアンライバルド、ヴィクトワールピサと2年連続で1番人気で臨みながらいずれも敗れている。執念を生んだ源は、勝てなかったという過去だった。

普通に乗れば勝てるので、普通に乗ったが展開が向かずに敗れた祐一。普通に乗っては勝てないので、普通とは思えない鬼気迫る騎乗で勝った岩田。最も運の良い馬が勝つ、と言われるダービーの格言ではあるが、果たしてその運というものは、単なる巡り合わせのようなものなのか。それとも岩田や矢作厩舎がやったような、狂気や執念を伴った末に転がり込んでくるものなのか。祐一がその答えを知るのは、もう少しの月日が経過した後だった。

2013 永遠に消えない傷(エピファネイア:2着)

この年のダービーは痛恨の記憶として、今も祐一の頭にこびりついているだろう。かつて自身のお手馬として一世を風靡したシーザリオの仔、エピファネイアで牡馬クラシックに挑んだ。

祐一はメディアに多く出演する割には個々の馬の評価を滅多に口にしない。ワールドエースの時も手応えや自信があったはずなのに、特別な言及はしてこなかった。ただエピファネイアに関してははっきりと「この世代で一番強い。ダービーを勝たなきゃいけない馬」と口外していた。この馬で勝たなければ一生勝てない。メディアを通してあえてお手馬の評価を公にしたのは祐一自身の覚悟の表れだったのかもしれない。

祐一が抱いてた自信はデビュー後の戦績にも反映された。新馬 → 京都2歳ステークス(OP) → ラジオNIKKEI杯(当時G3)を他を寄せ付けない快勝で無傷の3連勝を飾る。2歳の暮れ時点に置いては世代の一番星の評価を得ていた。

しかし3歳になってからは、かねてから持っていた前に行きたがる気性の強さが悪い方向に出るようになっていた。祐一が乗れなかった弥生賞では折り合いを欠いて4着、皐月賞でも能力の高さを見せつけての2着だったが、リズムにイマイチ乗り切れずにロゴタイプに屈した。

折り合いをつけてリズムよく走らせた上で、直線で末脚を爆発させれば敵になる馬はいない。皐月賞までの走りっぷりを見る限りでは、確かにそう予感させるだけのポテンシャルの高さを示していた。

しかし折り合いをつけてリズムよく走らせることが相当に難しいのもまた事実だ。ダービージョッキーの称号。それを与えられるにあたって、これは最後に出された課題のようなものだった。

そして迎えたダービーのスタート。まずまずの出足でゲートを出たエピファネイアは軽やかな足取りで府中のターフを駆けていく。調子自体は良さそうだった。しかし2コーナー手前から前に行きたがる悪いクセを見せるようになる。前に他馬を置いて必死になだめる祐一。暴走は食い止められてはいるが、向こう正面での腰を浮かせながら騎乗にはお世辞にもリズムよく走らせられている、とは言えない状況だった。

そして残り1100m地点でアクシデントが起こる。前に行きたいエピファネイア、それを阻止したい祐一。双方の明確なスレ違いはあわや落馬かと思わせるかのように大きな躓きを生んだ。エピファネイア自身の驚異的な反射神経のおかげで転倒は避けられたものの、ミスの許されないダービーでこのアクシデントは痛恨だった。

直線を向いたエピファネイアは自身のポテンシャルの高さを示すかのように鋭い末脚で他馬を置き去りにする。しかし先頭でのゴール板通過が視野に入ってきたところで後ろから飛んできたキズナに差されて2着に敗れた。

騎手キャリア最大のチャンスを逃した祐一は無力感を覚えながら検量室前の2着馬用の枠場に戻ってきた。まるで親戚の子が亡くなったような表情で迎える角居厩舎のスタッフたちに向かって天を仰ぎながら「すみませんでした」と小さく謝った。

この敗戦はジョッキー引退を真剣に検討するくらい、祐一の心に深い傷を負わせた。それはキングヘイロー、ネオユニヴァース、マルカシェンク、ワールドエースの時とは比べものにならないほどのダメージだった。自分がしっかり乗っていたら勝てたのだから。それと同時に、毎年挑戦ができるジョッキーや調教師と違い、馬主、特に一頭の競走馬のとってのダービー挑戦は一度きりのかけがいのないものであることも祐一の心の傷を深くした。

幾度とないチャンスに巡り合いながらも立ちはだかる壁に跳ね返され続ける。そして今回、祐一の前に立ちはだかったのは盛者必衰との苦闘を続けていた武豊だった。

デビューから25年以上、常に最前線に立ち続けたスターに周囲、そして日本競馬界はずっと彼に赤い絨毯を敷いて迎え続けた。毎週数えきれないほどの有力馬の騎乗依頼が舞い込み、数えきれないほど多数の人間が近寄ってくる。それが日常の当たり前の風景だった。しかしあの落馬事故を境に有力馬の騎乗依頼が激減した。そしてそれが成績に表れ始めると、途端に自分の周りから多くの人が離れていき、足元にあったはずの赤い絨毯はいつの間にか引き剥がされていた。

王様の椅子から転がり落ちる気持ちは本人しかわからない。想像もつかないほどの悔しさがあっただろう。スポットライトの行き先が自分ではなくなった瞬間に諦めるアスリートが存在するのに、それでも武豊は競馬から離れなかった。そしてファンは苦難に直面しながらも泣き言を言わずに立ち向かうかつての王様の奮闘を知っていた。

僕は帰ってきました。

勝利騎手による場内インタビューで武豊が放ったこの言葉に、13万人のファンによる大歓声が起こった。検量室にいたであろう祐一の耳にもきっと届いてたに違いない。そして祐一は自分の現在位置を改めて認識した。いくら年間成績で上回るようになったとしても、日本競馬界の主役は誰か、痛いほどよくわかったはずだ。

明確に、そしてはっきりと見えてきた東京優駿の頂。それでもゴール板にはいつも前を走る誰かの背中があった。果てしなく遥かなる挑戦。一生消えることのない傷を伴いながらも、祐一は顔を上げようと必死に歯をくいしばった。

2014 ベテランの意地(レッドリヴェール:12着)

ひょんなことから2歳女王に騎乗してダービーに挑むことになったこの年。元々、祐一のお手馬だったベルキャニオンは戸崎圭太へ、戸崎圭太のお手馬だったレッドリヴェールが祐一の元に来るというトレード移籍のような珍しい形となった。

今回は何といっても橋口厩舎、悲願のダービー制覇である。ダンスインザダーク、ハーツクライ、リーチザクラウン、ローズキングダムと4度の2着がありながら栄冠には遠かった橋口調教師にとって、定年による引退まであと2年というところでようやく勝利した。勝ち馬がかつて管理していたハーツクライの産駒というのもいい。

そして横山典弘と蛯名正義、関東を代表する両ベテランジョッキーによる、彼ら自身の自分が何者であるかを証明する戦いでもあった。自身初のダービー制覇を懸ける蛯名、対する横山典は橋口厩舎の悲願を一身に背負うと同時に、このダービーを自身のプライドを取り戻す一戦と位置づけた。

前年のダービー。祐一がエピファネイアでも勝利できずに無力感に苛まれる一方で、レースに騎乗すらできなかった横山典はやり場のない怒りを懸命に抑え込んでた。自身のお手馬だったコディーノが、ダービー直前に乗り替わりを発表。乗り替わり自体は馬主側の意向だったが、最終的にそれを説得できなかった藤澤和雄調教師との間に深い溝ができるところまで発展。当時の競馬サークルは関東を震源地に大きく揺れていた。

この事態に内心ほくそ笑んでいたのは武豊だった。自身の復活を懸けたダービー。大舞台で平気で奇策を仕掛けてくる曲者・横山典が騎乗する実力馬であるコディーノに最大の警戒を置いていた。しかし横山典の騎乗がなくなったことで、自身はキズナの能力を最大限に活かす乗り方に集中できたのだ。あの時、あのまま横山典がコディーノに騎乗していたら歴史は変わっていたかもしれない。

橋口・横山典のベテランタッグによるダービー勝利はベテランの年齢に差し掛かりつつあった祐一にも勇気を与えただろう。その一方でダービーの厚い壁に阻まれ続ける蛯名に自身の姿を重ね合わせた部分もまたあったのかもしれない。

2015 挑んでも挑んでも(リアルスティール:4着)

全国リーディングを2回も獲得すれば、クラシックでは複数の有力馬を抱えるような売れっこジョッキーになる。この年はサトノクラウンとリアルスティールというクラシックを目指せる2頭のお手馬を抱えていたが、最終的に選んだのは後者だった。

共同通信杯を勝利した時点においてはクラシックに最も近い位置にいただろう。しかしスプリングSで勝ち損ねたところで流れが少しずつ悪くなっていった。条件戦を勝ち上がったばかりの伏兵馬に足元を掬われた、としてスプリングSでの祐一の騎乗に批判が殺到したけれど、そのレースの勝者が本当にただ条件戦を勝ち上がっただけの伏兵馬だったのかどうかが明らかになるのはもう少し先のこと。

皐月賞は文句のつけようのない見事な騎乗だった。ただ誤算だったのは共同通信杯で勝負づけが済んでいたと思われてたドゥラメンテが実はものすごいポテンシャルを持ってて、その力がクラシック本番で解放されたことだった。まるで一瞬のワープのように直線を駆け上がり、瞬きをしている間にリアルスティールを颯爽に抜き去った。これは相手が強すぎた。

共同通信杯勝利直後時点においてはリアルスティールの不安要素は適正距離の面だけだった。おそらく1800~2000mが適距離で2400mへの対応ができるか否かに焦点が置かれてた。ただ同馬を管理する矢作厩舎には'ディープブリランテ'という名前のソフトウェアが既にインストール済でそのノウハウはある。距離不安さえ解消できればあとは、、、というところで強烈なライバルが出現した。

レースでは最初の1000mが58秒台で進むハイペース。あのキタサンブラックが14着に沈むほどタフな流れでドゥラメンテは中段よりやや前目、リアルスティールは10番手以降の位置で末脚を溜める展開だった。ドゥラメンテの皐月賞での衝撃の走りを見て、祐一は後方での競馬を選択した。ただ上がり3ハロンは前にいたドゥラメンテの方が速かったのだからお手上げである。リアルスティールはレース後に骨折が判明。2着を確保できなかったのはその故障の影響もあっただろうが、おそらく万全でどうあがいても勝つのは難しかっただろう。

幾多の有力馬で挑戦しながら何度挑んでも届かない頂。あと自分には何が足りないのか。知っていたら教えてほしい、と祐一は本気で思ってたはずだ。

それにしても、祐一が乗り方を変えるほど畏怖し、矢作調教師をして「別格」と言わしめたドゥラメンテの強さは異次元だった。二人ともにホースマンとしてあのレベルの競走馬に携わってみたい、という本能みたいなものが芽生えたことだろう。そんな彼らの元に、コントレイルという最高傑作が舞い降りてくるのはこれももう少し先の話だった。

2016 11年ぶりの戦争(レインボーライン:8着)

この年は後に春の天皇賞を制することとなるレインボーラインと挑んだ。

祐一としては母・シーザリオという、ゆかりの血統を有したリオンディーズで2013年のリベンジを果たしたかっただろう。
ただ前年のスワンステークスでの落馬負傷により復帰がこの年の2月までずれ込む。この世代の2歳戦にほとんど関われず、その間に有力馬の主戦騎手がほとんど埋まってしまっていた。

そのリオンディーズは今回のクラシックでミルコを乗せて、エアスピネルと母子の因縁をかけた戦争を引き起こす。

話は遡って2005年。オークスで祐一が騎乗したシーザリオは圧倒的一番人気を背負って勝利した。しかし内容はヒヤヒヤものだった。スタート直後、隣のゲートにいた武豊騎乗のエアメサイアがすぐにシーザリオの前につける。シーザリオの進路を塞いで狙ったポジションにつかせない武豊の巧妙な策略だった。

シーザリオのリズムが狂う。とりたいポジションを進めようとしてもエアメサイアによる封じ込み作戦で道中ずっと塩漬けをくらう。直線、能力の違いを見せつけたシーザリオはゴール板寸前で何とかエアメサイアを捕らえる。レースには勝ったが内容では完敗。ジョッキーとしてのスキルの差を存分に見せつけられた形となった。

そして11年の時を越えて、両者の子どもによる再戦の号砲が鳴り響いた。武豊はエアスピネルで悲願の朝日杯制覇を狙ったがリオンディーズに阻まれる。そしてダービー。ここで武豊はあの時のオークスと同じような、自身のキャリアで最高の騎乗の一つに数えられるであろうレースをあの時のゆかりの血統で見せつける。

5番手追走のエアスピネルは直線半ばで一気にスパートをかける。戦前の距離不安も何のその。先行待機でなおかつ脚を溜めていたエアスピネルは先頭に躍り出た。そのままグングンと前に進み、見る者全員に「もしかしたら」と思わせた。最後は自力に勝る上位人気馬3頭に交わされたものの因縁のリオンディーズには先着。あの直線、関係者は大いに夢を見れただろう。武豊はやっぱり天才だった。このレースは馬券圏外のところで大きな感動を生んでいた。欲を言えば、リオンディーズの背中に祐一が乗っていたらこの戦争は更なる興奮を生んだのかもしれない。

レースは川田将雅騎乗のマカヒキが勝利した。祐一にとってはまたも後輩に先を越された。ただ、金子の勝負服を着たジョッキーが友道厩舎のスタッフと歓喜する、という光景が2年後にまた再現されることになるのをこの時は誰も知らない。

2017 栄光へのラストピース(カデナ:11着)

2歳時に京都2歳ステークスを勝利して、皐月賞前哨戦である弥生賞も勝利する。この戦績だけ見ればカデナは完全にクラシック有力候補である。ただ3番人気で臨んだ皐月賞は9着。そしてダービーは11着。カデナは明らかに上位勢とは力の差があった。

近年、有力馬は2歳時に賞金を稼いで年が明けて皐月賞に直行。もしくは皐月賞すら使わないローテでダービーを目指す流れが増えてきていた。

レイデオロは皐月賞をダービートライアルのように使い、1番人気のアドミラブルは皐月賞をパスして青葉賞をステップに。サトノアーサーに至っては毎日杯からダービーと、間隔さえも十分に空けたローテで参戦した。池江厩舎が発案してその先駆けとなったこの毎日杯からの直行ローテは2021年に祐一に歓喜をもたらすことになるのはまた別の話で。

レースはスローペースを読み切って向こう正面で一気に先頭に立ったレイデオロがそのまま押し切った。もし負けていたら非難轟々のリスクある騎乗だったがクリストフ・ルメールは見事に結果を出した。ダービー史上に残る名騎乗である。

前年、お手馬の一頭だったマカヒキに別れを告げてサトノダイヤモンドでクラシックに臨む決断をした。しかし本番ではわずかハナ差でマカヒキに敗れた。祐一はクリストフにシンパシーを感じたはずだ。決断した理由がどうであれ、選ばなかった方に勝たれる苦しみは当事者たちにしかわからない。

早めに動いたことで引っ掛かり暴走する危険と隣り合わせの騎乗をしたクリストフとは対照的に、スローな展開に胸騒ぎを覚えながらも自分の馬が最も得意とする形で勝負をかけたアドミラブル騎乗のミルコ。結果は前に行ったレイデオロを捕まえきれずに3着。馬の力を信じすぎたミルコはこの騎乗を悔やみ、それから長いことこの時の決断を引きずっていた。

誰もが勝ちたい日本ダービー。だからこそその一瞬一瞬でジョッキーの本質が出る。自分の馬の最も得意な形で勝負した方が非難されないし、負けたとしても仕方ないと割り切れる部分はあるだろう。しかし栄冠をつかみとったジョッキーたちはみな、その恐怖に打ち勝ち、勇気を持った騎乗でお手馬を勝たせてきた。ロジユニヴァース、ディープブリランテ、レイデオロなどなど。

ワールドエースで苦い経験をした祐一は今回のクリストフを見て吹っ切れたことだろう。いかに勇気を持って、そして腹を括って騎乗できるか。こうして祐一は来年を迎えることになる。

2018 大団円(ワグネリアン:1着)

キングヘイローでの初騎乗から20年。祐一はダービーに勝つための秘密の鍵をようやく手にした。

覇者クラスの実力馬は自分の最大値を出すような乗り方で勝てるが、そうじゃない馬はどこかで腹をくくった乗り方が必要になる。

この年の牡馬クラシックで一番星と目されていたのは川田将雅を主戦騎手としたダノンプレミアムだった。3歳初戦であいまみえた弥生賞ではダノンプレミアムに完敗して2着に。しかし皐月賞では調教中のアクシデントの影響でダノンプレミアムが回避。1番人気にはワグネリアンが押された。

ダノンプレミアム不在であれば普通に乗れば勝てる。祐一は皐月賞で自分の力を出すことだけに集中する覇者クラスの乗り方をした。しかし後方で脚をためるも全く伸びずに結果は7着と惨敗。先行した馬たちが上位を占めた。

出走メンバーの中で能力では完全に上回ってると思ってた皐月賞で勝てなかった。そしてダノンプレミアムが戻ってきて、別路線から実力馬も参戦してくるダービーは普通に乗っていては勝てない。祐一はダービーで積極的な先行策をとることを決める。そして枠順発表。東京2400mでは圧倒的不利と言われる8枠が当たり一瞬絶望しかけたが決意は変わらなかった。

東京優駿のスタートを告げるファンファーレが鳴り響く。ワグネリアンにとってダービーがデビューから6戦目。その間の故障は一切なし。友道厩舎による渾身の仕上げで万全の状態でスタートを迎えられた。祐一は武者震いして腹に力を込めた。そこに2006年の自身の面影はなかった。

スタートのゲートが開く。タイミングよくきちんと出た祐一はワグネリアンに素早い出足で前につけていくよう指示する。そしてスムーズに第一コーナーを回る。ちゃんと馬との折り合いはついている。そして表情も引き締まっている。そこに1998年の自身の面影はなかった。

レースは澱みない流れで隊列が向こう正面へと進んでいく。ダノンプレミアム、ブラストワンピース。レース前に最も警戒すべき標的と定めた2頭を近くでじっくり見られる位置でワグネリアンはリズムの良い走りを見せている。腰が浮くことなく手綱を握る祐一。もちろん転倒寸前の躓きなんてことは起こらない。そこに2013年の自身の面影はなかった。

そして第3コーナーから第4コーナー。各馬の思惑がそれぞれを突き動かして最も激流が起こる場所。ここで祐一は標的の一頭であったダノンプレミアムの手応えが怪しいことを察知する。そしてその刹那、最大の標的をブラストワンピースに絞り込んで直線に入るための進路を塞ぐ。自分の馬の力を最大限に出すことだけではなく、他の馬の最大値を封印してレースの流れを完全に自分のものにした。そこに2012年の自身の面影はなかった。

第4コーナーの出口で強く警戒していた標的たちを封じ込めた。あとはゴールまでに自分より前にいる馬たちをかわすだけ。祐一は直線に入ってからここぞのタイミングで追い出しをかける。先頭を走っているのは皐月賞馬・エポカドーロ。ダービーは逃げてインコースに進路をとった馬が意外と粘れるんだぞ。2007年の自身の面影が今の自分に熱く語りかける。押せ。とにかく押すんだ。

残り200m。抜け出せそうで抜け出せないワグネリアン。祐一は無我夢中で押す。どの馬がどの位置にいるのか認識できないほど、狂ったようにワグネリアンを押した。強く押されたワグネリアンはそれに応えるように先頭をかわしてアタマを先に出した。その調子で次はクビを。そして身体半分が抜け出たところがゴールだった。

ついに掴んだ。20年の時を超えて、それまで自分が経験したもの全てを血肉にしてこの瞬間に開放した。先頭でゴール板を駆け抜けたことを認識した祐一は右腕を突き上げる。大歓声に包まれる府中。1番人気で敗れながらも「やったね!」と後ろから声をかける川田将雅のことを、この時の祐一は気づいていただろうか。

ウイニングラン。人目も憚らずに大泣きする祐一に府中のファンの眼差しは暖かかった。巡り合わせを活かせなかった20年間。武豊はずっと自分の前に立ちはだかり、池添謙一や川田将雅など頼もしい後輩に先を越され、いつしか主要開催のメインレースは短期免許の外国人ジョッキーたちの独壇場となった。主役になれたはずなのに主役になれなかった。そんな男がこの時、人生で最も強いスポットライトを浴びていた。

歓喜の渦は検量室まで続いていた。派手に万歳する金子真人オーナー、大きな拍手で讃える友道調教師、なぜか泣きじゃくってる福永番記者であるメディア関係者たち。惜敗した藤原調教師は肩を叩いて労い、ミルコには真っ先に抱きつかれ、「やれやれ、やっとやな」と囁いた武豊は優しく笑っていた。

自身の想像以上に周囲の祝福に圧倒された祐一はこの時ダービーの真の重さを知ることになった。そして20年にわたる祐一の東京優駿物語は終わりを迎えた。

2019 - 2023 Vaya con Dios(コントレイル、シャフリヤール)

悲願の東京優駿獲得から5年が過ぎようとしている。あれだけ勝つのに苦労したレースなのに4年で3勝もするのだから、憑き物が落ちるとはこのことを言うのかもしれない。

ワグネリアンの勝利から、ほどなくして騎手キャリアの集大成となるコントレイルの出会いがあり、歴史的偉業を成し遂げる。そしてその次の年にはシャフリヤールで若手ジョッキーの前に立ちはだかり、東京優駿がそう簡単に勝てるレースではないことを教えた。

そして2023年2月に引退をする。

年間100勝するほどまだまだ周囲に求められた状態でありながらの引退はもったいないような気もするが、個人的に違う職種で勝負する世界を見れる楽しみの方が勝る。既にいくつかの関西の名門厩舎の凄腕調教助手たちが開業予定とされる福永厩舎への移籍が決まっているようだ。きっと多くの素質馬が集まるだろう。

福永厩舎の管理馬に武豊を乗せて凱旋門賞を制したり、競馬学校を卒業した有望騎手が福永厩舎の所属になり、新たなスタージョッキーが誕生するかもしれない。基本的に馬に乗ってレースを勝たせるしかできなかった今までよりも、これからの方が携われる分野がどんどん増えていくのだ。

それでもやはり調教師としても東京優駿を目指してほしい。順調にいけば50歳を手前に厩舎開業をして定年の70歳までは20年近くある。また新たな東京優駿20年物語が書けるかもしれない。笑

調教師になったら意外と早く開業5年で勝ったりするのかもしれないが。そんな勝手な妄想を巡らせながら、彼の今後の更なる活躍を楽しみにしている。

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