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好きを彫刻する。

先日、所属先の大学で、卒業制作の中間発表があった。
さらに、現在、前期の最終週(第16週目。夏休みが待ち遠しい)で、成績をつけている最中ということもあり、学生の作品や発表を見る機会が多い。

学生からは様々な表現や主張があり、結構なことである。私はその主張について、目くじらを立てて、正しいとか、違うとか言うつもりはない。大いに好きなようにやってくれればいいし、なんならもっとぶっ飛んでいて欲しいと言うのが本音だ。正直、まだまだ余裕で想定の範囲内。私の小さく狭い頭の中に収まるような、小さく纏まったアイデアではなく、もっと振り切った何かが欲しいくらいだ。

ともかく、学生には思う存分自分なりの表現や主張を模索して欲しい。大人の顔色は全く伺う必要はないのだ。

ただ、一方で鑑賞者としては、作者の表現や主張の出所が聞きたい。なぜその主張に至ったのか。どうしてその表現なのかを考えていく必要があると思う。

「えっ、なんとなくかっこいいと思ったから」とか

「よくわかんないけど、とにかく好きだから」とか。

作家は直感的に行きたい方向が決まるときもあると思うので、最初はそれでいいと思うのだが、それを制作(やアイデアを練る過程)を通して、ずんずんずんずんと深めていく。そうすると、きっと自分と作品との繋がりが見えてきて、直感した「何か」が見えてくると思う。すぐには見つからないかもしれないけど、もし直感的に「これだ!」と思ったら、その直感がなんなのかわかるまで、「彫り」下げていってみて欲しい。

もしかしたら、それは自分が新たに創り出すフィクションのストーリーなのかもしれない。それでもいいのだと思う。とにかく制作はものを作るだけではなく、その創る行為の中で、自分自身と作品の物語を作っていく行為でもあるのかもしれない。そして鑑賞者は、それが聞きたいのだ。

そんなことを思った。

ちなみに私は、学部生時代の直感から始めた今のスタイルを、20年近く続けているので、始めた頃よりは見えてきたところもある。けれど、まだまだ、その直感の理由がなんだったのかを探し続けている。

(写真はヨーロッパの中でも、大好きな都市の1つ。エジンバラで撮った写真)



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