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依存という一事について思い考えていたらどうにも長くなった

 依存、という言葉があって ―― それが良いのとか悪いのとかに色々言うけれど、一体それはなんなのだろう。
 依存はやめて自立しなくちゃあいけないんだ、という言い方は理解できるし、いやいや様々な人に寄りかかって生きているのが人間なんですよ、という言い方もわかる。
 わかりはするけれど …… それでいて、彼らの言い方に僕がどうも納得できないでいたのは、それらは皆表面的なことを語っているのではないか、という危惧であったのだろう。

 表面的な行為。あるいは、表面的な好き嫌いという心理で語っている。


 例えば洋画というものを観ていると、向こうの人たちは親しい相手とのスキンシップがとても激しいだろう。ハグとか、軽いキスであるとか。
 ならば彼らは心底ベッタリしているのかというと「あなたはそうでしょう!」「私はこうなのよ!」という、互いの主張をものすごくしている。
 表面的な行為としてはくっついても見えるが、内面的な心理としては自他が大きく別れているはずだ。

 我々日本人はどうだろう、と考えてみたとき、全くではないにしても、その逆というものを思う。
 行為としては、あまりにくっつくのを「みっともない」と避ける傾向がありつつも、心理的には「何となくこうだよね」「言わなくてもわかるだろう」というベッタリ感を覚える。

 何となく相手のことがわかるつもりになっていたのは、日本人には「こういうときはこうするものだよね」というものが強く定まっていたのだ。
 それを、決まり事といってもいいし、常識とか世間体といってもいいし、言葉はなんだって構わない。
 しかし、実のところ我々日本人がわかっていたものとは、相手の気持ちではなくて、その時々の決まり事であったろう。
 決まり事を相手の気持ちと思い込んできた。だが、それでこれまでの社会が上手く回ってきたことも事実ではあるし、ただ悪いと言うつもりはない。

 どちらが良い、という表面的な話をしているのではない。
 そのような異なりがあるだろう、ということを、まずは示しておかなければならない。

 その上で、我々日本人が欧米人になる必要はないし、また、なることはできない。
 異文化に憧れる気持ちというものはあるし、もっと簡単にいうと、英語をカッコイイと思う気持ちはわかるつもりだけれど、それでも根本の部分から変わることはできないのだ。


 かつて明治維新なるものがあった。
 欧米列強をモデルにして、近代文明化を図ったその働きとは、単に欧米を参考にしたという程度のものではなく、欧米先進国を目指したものであったはずだ。
 しかしその結果とは、ヨーロッパの国が一つ増えた …… などということはなくて、どこまでも「欧米を参考にした日本国」であり日本人だった。

 国家という巨大な枠組みを用いても、日本人という根底を覆すことはできなかった。ならば、どうして今さら個人がそれを成せるだろう。
 成せるというのならば、彼らのように、それを説明するための言葉を用いた強力な論理が必要となる。
 ”なんとなく”に”その内”成せるに違いない、というのであれば、未だに成っていないこととはなんなのか。あと何十年待つつもりなのか。
 個人の人生で何十年も待っていたら、変革よりも先に人生が終わりを迎えてしまう。

 少なくとも僕は、自らの背後に在るもの ―― 背景とでもいったものを、否定することができなくなった。


 あらゆる人間に、背景というものがあるだろう。

 どう生まれ、どう育ち、どのような人やものとの関わりを持ってきたか ―― それを喜ばしく思おうと、あるいはどれだけ憎悪しようと、そのような気持ちですらも、背景込みで生じてくるものである。
 歓喜には喜ばしい背景が、憎悪には妬ましい背景がある。何も無い所から気持ちが生じたりはしない。

 僕のこの気持ちですらも、今まで生きてきた流れの先に生じたものである。
 それを、認めるしかなくなってきた。
 それは、背景に従うということではない。背景を憎悪するこの気持ちすらも認めてゆく、という姿勢のことを言っているつもりだ。


 あなたがあなたであり、私が私であるということ。


 どちらが正しいか、を定める必要はない。
 物事の是非とは、世界をつくりたもうた唯一の神を信じる人にとっては、確かに世界の真理なのだろう。
 しかし、物理的な働きを信じる僕のような人間にとって、是非とは世界の真理などではなく、ヒトの知性が発明した観念ツールに過ぎないものなのだ。

 物理的な働きによって生じたこの宇宙に、真理としての善悪倫理があるというのならば、この宇宙が生まれたこととは善悪のどちらであったのか?物質が生じ、星々が形作られ、太陽系が形成されて地球がこの様に存在し、そこに生命が満ちたこととは、果たして善いことなのか悪いことなのか。
 善悪倫理がヒトの誕生する以前からあったというのならば、それらこの宇宙の働き全てを、人間という視点を一切用いずに説明してみせねばならない。
 そして、僕にはそれを説明することができなかった。

 だからといって、是非とか善悪が必要ないということではない。人間社会を維持するためには、その様なものを必要としたのだろうから。
 それに、そういった観念を無視していいということでもない。
 社会を去り世捨て人になるならばともかくとして、この人間社会に生きる以上は、社会を保つ働きというものを考慮せずには済まないだろう。

 それは、黙って決まりごとに従え、という意味ではない。
 今身の回りにあるものが、数えきれない人間の手を経由してここにたどり着いている ―― あらゆる人々の活動が、一人ひとりの社会生活を支えているというのならば、社会を保たないこととは、自分自身の社会生活を崩壊させることと同義であるのだ。
 しかし、そこを多く論じると別の話になってしまうので、これ以上は今のところ置いておこう。


 依存という考え方があって、それを「する・しない」というところで争っている。それは表面的だ。

 表面的にはくっついていても、心に自他の異なりを保っている関係性がある。
 表面的にはあっさりとしていても、いざ甘えたら聞いてくれなければ我慢できない、という関係性がある。

 とはいっても、ならお互いの心理的な境界が曖昧であった日本人のあり方がいけなかったのか、ということではない。
 共通した価値観を持つことで、人は気持ちを安定させ得る。
 であるならば、社会に共通の価値観を定めて暮らしていられたかつての日本人とは、比較的気持ちの安定した存在だったのではあるまいか。
 過去をこの目で見てくることができない以上、だったのかもしれない、という言い方しかできないけれど ……。

 かつてはそれで気が済んでいたのだ。
 しかし、今やそれでは済まなくなりつつある。
 もしかしたら、どうも世の中に方法論の行き交い過ぎる感じを受けるのは、新たな価値観を欲しがっているのだという言い方もできるだろう。


 善悪や是非とは人間社会を保つための観念である、ということを言った。
 であれば、今までの我々の生き方とは、そのような生き方を必要としたという、それだけのこと。是非を論じる必要もない。
 そして、これからの我々にはこれからの生き方が必要となるという、たったそれだけのこと。
 それでいて、我々には我々の背景があるのだから、そういった背景の流れの先に今の自分が在るのだという、そこから考えなくてはならない。
 自らの生まれ育ってきたものを切り離して、ただ言葉の理屈を並べてみても、それはどれだけ使えるものといえるだろう。
 そして、他人にどれだけ憧れてみても、事実として他人である以上は、他人になることなどできないのである。

 他人になれるというのなら、あなたはどうやってあなたをやめる?
 自分も他人も、美味しいところばかり得ようなどと、そう上手くはいくまい。本当に他人になるつもりならば、心底自分というものを捨て去らねばならない。
 そして、自分自身を全く捨て去るというやり方を、少なくとも僕は考え出すことができない。


 物質的な行為でも心理的な寄りかかり方でもなく、”あなたと私”という感じ方が溶けてしまうことこそ、依存と呼び問題にされるものなのだろう。
 どこまでが自分でどこからが他人か、感じ方としてわからなくなっている。

 視覚を始め、ヒトは五感で外界をみているから、それで自他の違いがわかりきっていると思い込んでしまう。そしてまた、その自他という異なりを意識してはいる。
 だがそれにしては、外界にいる他人に同じ価値観を期待し、好みを共有することを求め、共有できないことに不満を抱き ―― 他人とわかりきっているはずのものに、自分を期待しすぎる。
 そこに、物質的・精神的な自他とは異なる、感じ方としての自他があり得る。

 感じ方というものは、物質的でなければ、精神的ですらない。
 物的な自他があって、自他であると意識の上でもわかっていて、心身ともに自他であると認識しているにも関わらず、それでもなお自分を求めてしまうという感触がある。
 感触とか感じ方として、自他の在り方がわからなくなっている。

 感触とはなんであろうか。
 と考えたとき、感じ方である以上は、言葉に表しきれるものではない。
 だが例えば、身体的に触れ合う実感。交流を通じて心に感じられる実感。また、心の内から昇ってくる「わかった!」という閃きめいた実感すらも含まれる ―― そう表現することは可能であろう。
 そして、その様な感触を意識上にまで持っていき、外界へと身体的に発揮する。
 そこまで成して、ようやく感じ取ったと言えるものではないのか。

 外界から発し、心に感じ取り、また外界へと反映フィードバックする。
 心に「わかった!」と思うだけでは足りないのかもしれない。


 この「わかった!」ということについて、一つ僕の個人的な話をしてみよう。
 二年ほど前であったか。ある夜の夢の中で「お前はまだ「そうか!」という気付きの地点に留まっている」と叱られたことがあったのだ。
 その後しばらく、気付きではない奥の地点があるのかと思い考えてみたけれど、恐らくそうではない。「そうか!」という、気付きそのものを深めてゆくことができるのだ。

 このことに気付いたからもういいや、と終わらせてしまうのではなくて、何故そう気付いたのか・気付いたものとはどう言葉にまで言い表せるのか、と奥の奥まで検討していこうとすること。気付いたそのものを、どこまでも深めていこうという姿勢。
 叱られたのは「気付きの地点」についてではなく「そうか!の地点」の方であったのだろう。
 それは気付きの入り口にすぎないんだよ、という忠告。


 そして、その様なものを心の奥へ奥へと探り求めて行き、深めた先は外界へと続いている。
 それは恐らくだが、自分という人間存在の半分が肉体である、という事実に基づくものだろう。
 これは極めて個人的な感じ方なので、今は上手く説明できないが …… いつかは言葉に表したいと思っている。

 しかし一つ言えるのは、心身の片方だけを思い続けることはできない、ということ。
 心ばかりを追い求めていれば、外の社会を生きられなくなってしまう。
 物ばかりを追い求めていれば、内の本心を忘れ去ってしまう。

 両者をそれなりに思い、なおかつどちらもそれなりに扱おうと試みること ―― それは自他とてそうではないのか。
 あらゆるものに「どちらが大事?」を決めてしまいたがるけれど、大事さの度合いはさて置いて、全く必要としないものなどはそうそう無いはずである。
 心身ともに必要であり、自他ともに全く必要ないということはない。

 自分ばかりをもてはやすから、他人からの反発を受ける。
 人様ばかりをもてはやすから、「私を見てほしい」という自分自身からの反乱を受ける。

 決められないことが依存を引き起こすのではなく、一つに決めつけてしまうことこそ、それに対する反乱としての依存という問題を引き起こしてしまうのではないだろうか。


 あなたがあなたであり、私が私であるということ。
 その在り方を、これまでの決めつけではなく、これからの自分自身の感じ方として、定義し直さなければならない。
 それぞれの個人的な定義だ。

 個々人の感じ方に、一つの社会的な定義を与えることは、本来できることではない。事実として、社会とは別人同士の集合体であるからだ。
 個人としての定義付けは、とても難しく苦しいもので、しかしその道を経なければ、あなたと私とは何となく一緒のまま。
 自他が何となく一緒ということは、何となくの一体感を感じた後に、何だかわからないままに傷付き苦しむという、そのサイクルをどこまでも繰り返し続けるということ。
 ぼんやりと苦しみ続けることが、何となくの人間関係といったものであろう。

 ということは、あなたと私という感触を心底実感し保っているからこそ、人間関係を深めていくことが可能になるだろう。
 あなたと私、二人の人間関係の深みにはまりこむということ ―― それ自体が問題を引き起こすのではなくて、はまりこむ過程において自他を失してしまうからこそ、その様なものが依存的であると呼ばれ、問題になるのかもしれない。

 自他さえ保ち続けていれば、どこまでも二人の関係にはまりこんでいけるということ?

 理論上はそうだ。そして、僕個人としてはそれを信じたいと思っている。
 しかし、言葉としての論理があまりにも足りないので、今はこれ以上下手なことが言えない。

 それでも、僕はその自他を保ち続ける道を見付け始めたのだと、そう信じている。
 これは僕の個人的な感じ方だ。
 今のところ、誰と共有できるものでもない。


 こうして綴ってきた言葉が、自分以外の人間にどれだけ伝わるだろう。そのことが、とても疑問だ。
 実感とは、心身の体感をも含めての実感であるが故に、書き表す側がそのことについてどれだけ実感していても、発された言葉とは実感を持たない単なる言葉になってしまうのである。
 そう考えると”言霊”なる言い方も僕は信用していないのだけれど ―― そこを話すと別の話題になってしまうので、今は置こう。

 あるいは、それで僕は内に留まり、このような言葉を外へ発しないでいたのだ。
 どうせなんにも伝わりはしないんだ …… という内の部分に。
 それはある種の逃げであると、意識上では知っていた。意識とか知識として見るならば、あの頃と今とに大した違いはない。

 やはり、感じ方とでもいったものが変化していったのであろう。

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