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内の世間がようやく視え始めた
世間というのはこの心の内に巣食う感じ方のことである。
そう言葉ではっきりと分かったのは、今年に入ってからだったかもしれない。
それからいくらかが経って、この内にこびりつく世間なる感触を、僕はようやく意識上に覚えることができるようになり始めた。
僕を捕らえ、何となくの全体性へ引き戻そうとするそれ。
全体性へと戻らない僕をなじり、否定しようとする。
僕が僕たろうと意識した時、世間が明確に牙をむいたのである。
戦うべきは、内なるあれ等だ。
ならば、内において戦うとはなんだ!?
一つには、僕なりの具体的な言葉にしてゆく、ということ。
例えば世間というものを考えてみた時 ―― 能力云々でなくお身内に入れると評価していただける、という日本人の性質に行き当たらざるを得なくなる。
そういった日本人の身内性を、偉い先生の書いた日本人観といったものはいくらか読んだこともあるし、僕自身の肌感覚としてもそのような身内性を捉えてはいる。
それでも、未だそこの部分で自分なりの言葉にし切れていないものがあるのでは、という感じを覚えるのである。
これは本当に自分自身の言葉か?偉そうな言葉を借りているだけではないのか?
であれば、内なるものへ自分自身の言葉を与えること。
ここは僕の言葉で証明してみせたぞ!と確信できる感触を得ることは、内なるものと戦ってゆく力となり得るだろう。
心底の実感を得た時、そこには感じ方すらも生まれている。単に言葉だけではないのだ。
世間なるあやふやな感じ方が巣食っているのだから、こちらとて感じ方までも用いなければ、とても戦えるものではない。
そして、何となくの感じ方には具体的な意識。
具体的な意識とは、理屈を言うことではない。曖昧な感触すらも力強く認めてみせよう!という意識のことなのだ。
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