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土足かもしれないと思っても

27歳だった12月の下旬、いよいよだと父から連絡を受けて、喪服を持って空港に向かった。

11月頃から毎週末、同じ道のりを帰省していた。
東京から和歌山、和歌山から東京。
新幹線でも飛行機でも深夜バスでも、どれでも同じようにとても遠くて、どうしようもなく苦かった。

そのころの私は、職場では、まだ転職して3ヶ月目の新人でもあった。

会社では、明るさ第一でシャキシャキと働き、楽しい上司や先輩たちから話を振られればヘラヘラと笑い、場を盛り上げる。

その一方、家でひとりになると不意に、いままさに母が死につつあるという事実が胸にきて、涙や嗚咽が止まらなくなる。

そんな毎日は、なかなかに苦しかった。はやく逃れたいとすら思った。
そんな日々の終わりも、もう、目前まで来ているのだと、現実味のない心で電車に揺られた。


それは土曜日の早朝で、空港はそれなりに人が多かった。
搭乗案内に従って乗り込み、機内の荷物入れに、私は喪服を丁寧にしまった。
それは母のおさがりだった。
初めて着たとき、「あんたその服、似合うなぁ」と、母は感心したようにのんびりと言った。たしかに似合っていたと思う。不謹慎だけれど、それからこの服はささやかなお気に入りになっていた。

席について少しした頃、スーツ姿の中年男性が隣の席に乗り込んできた。その人は持っていた小型のスーツケースを、先ほど私が喪服を入れたはずの荷物入れにおもむろに押し込んだ。

ぐしゃ、っと何かが潰された気がして、腹の底が、信じられないくらいカッと熱くなった。
私は弾かれたように立ち上がり、荷物入れを開けた。スーツケースの下に、ほんの少しだけ踏まれていた喪服をわざわざ取り出し、スーツケースの上に投げ入れた。

座席に戻り、ああ、この行動は感じが悪くてなにより無意味だ、と自分でも思った。
自分の気がすごく立っていることを認識し、どうしようもないまま飛行機は静かに飛び立った。


その日の午後には母が亡くなり、一気に慌ただしくなった。

父と兄とともに葬儀社と打ち合わせ、祭壇のデザインや花の種類、香典返しから遺影の背景色まで、どうでもいいことを細々と決めた。

棺に一緒に入れるものを用意し、親戚の対応をし、葬儀をした。
火葬場で、母を焼くための赤いボタンを兄が押し、寂しく晴れた冬の山間に、細くて白い煙がたなびいた。説明されながら骨を拾った。

週が明けて月曜の朝、会社に電話して「母が亡くなったのですが」と言うと、電話の向こうでOJTの先輩が息をのむ気配が伝わった。

一旦電話が切られ、折り返しで、もう年の暮れでもあるので、忌引きに2日ほど有給を足して、年始まで休むようにと指示された。
優しくて朴訥な先輩が、言葉に困っているのが手にとるようにわかったけれど、私は東京の日常にいる人と会話できたことが嬉しかった。


死亡届の提出やら(母の戸籍が込み入っていたせいで、田舎の役所を3軒もまわった)、銀行口座の解約、母の職場への挨拶、弔問客の対応と、バタバタと過ごすうちにあっという間に年始になり、心細そうにしている父を置いて、和歌山を発った。

人の多い関西国際空港のロビーの端、窓際のベンチに腰掛けて息をついた。私の知る限り、関空はいつも見事なまでに曇っている。ハンマースホイの絵画のように。
海の中にあるからだろうか、などと考えながら、寒々しい灰色の曇天をぼんやりと眺めた。


東京に戻り、ひとりになると急に、出勤するのが恐ろしくなってきた。誰に何を言われるのだろう、どんな顔で、どう対応すればいいのだろう。
職場の慣習で香典を集めてくれているのはわかっていたので、新春の大丸に香典返し用の菓子を買いに行った。

明るく活気に溢れた売場を、あれでもないこれでもないと何周も歩いた。

その売場にいて初めて、自分がすごく疲れていることを自覚した。
こんなに疲れているのに、きっと菓子なんてなんでもいいのに、何を買えばいいのか答えが出せない自分が馬鹿みたいだった。どうしてこんなことも上手くできないのだろうと泣きたくなった。

結局、多すぎて悪いことはないだろうと、ユーハイムの一番大きいバウムクーヘンの箱を二つと、これも一番大きい缶入りのお煎餅を買った。両手に大きな紙袋を提げて、まるで楽しい旅行から帰ってきた人のようだなと思った。


1月4日、出社した一瞬、オフィスの空気がさっと静かになったのを覚えている。

優しい先輩たちからいくつか声をかけてもらって、不器用に明るすぎるテンションで返事をした。
先輩たちも、私も、どちらもとても困っていた。でもそれも、そんな朝の一瞬が過ぎれば蒸し返されることもなく、終業の時間になり、会社を出た時には本当に心底ほっとした。もうぐったりと、疲れきっていた。


だから、会社近くの交差点の信号待ちで声をかけられた時は、正直、そっとしておいてくれよと思った。

「みずたまさん、本当に大変だったね」

その人は、別の部署の、ほとんど話したことのない男性社員だった。
中高生の息子が2人いる、温和でおとなしくて、普段はみんなの会話を一歩引いてニコニコ見守っているような人だ。

「あ、いえいえ、ご迷惑をおかけしました」

特にこの人には迷惑が掛かっていないような気もしながら、他に言葉も浮かばずに愛想笑いをした。
信号が青になり、並んで駅まで歩くながれになって、心の中で嘆息した。

駅近くの、狭い路地裏に入ったあたりで、その人は本題を話し始めた。

「実は、僕も若いときに母が亡くなってね」

「大変だよね」
「悲しいよね」

そういうストレートな言葉遣いをしていくから、はい、そうですね、そうですねえ、と、最初はなんでもなさそうに答えていた声は、だんだん頼りなくなり、何度か泣きそうになるのを堪えて無口になった。

駅の改札の手前まできて、その人は話を締めくくった。

「寂しいけれど、頑張っていかないとね」

それは、すごく温かくて、押し付けることが微塵もない、「励ます」ということの見本のような語調だった。

「じゃあ、おつかれさま」
「お疲れ様です」

最後はお互い、にこやかに笑って、それぞれ別の電車で帰路についた。


電車に乗って、ひとりになって、最初はすごくほっとした。
だけど20分ほど電車に揺られるうちに、しみじみと、温かな気持ちにつつまれだした。

有難いなあ、そして、ああ、優しさとは、こういうことをいうんだなあ。

今日の私に、いや、母がなくなってからずっと、一体誰が、正面から、こうして言葉を投げかけてくれただろう。
まだ入社して3ヶ月の、人となりもよくわからないような若い女性社員に。それも多分、私からは「触れてくれるな」という感じが出ていただろうに。

下手なことを言わずにそっとしておくのではなく、土足で踏み入るようなものかもしれないとわかりながら、それでも励ましてあげたいと思って声をかけてくれたその人の言葉が、その行為があらわしてくれた、とんでもない温かさが、その後もずっと私の中に残り続けた。


母がなくなってからもう5年が経つけれど、当時のことを思い返すごとに、先輩の行為の温かさを、幾重にも強く、強く、感じている。

「母の死」という出来事を思い出すたびに、もれなく、それを正面から励ましてくれた先輩の温かさがついてきて、私を支えてくれるのだ。
「寂しいけれど、頑張っていかないとね」と。


あのような言葉を、私は誰かに掛けられるだろうか。
人の心に踏み入るのは怖い。特に、その人が難しい場面にいるときには。

だけど、それが純粋な気持ち、気遣いや配慮に満ちているとき。それは自分で思う何倍も、受け手にとっては大切で優しい一歩になれるのかもしれない。
人の心にあえて関わっていくことの優しさ、強さを、心の中に、大切に持っておきたいと思う。



私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。