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ちょっと頑張って、生筍と鰆の4月

大学時代、1年だけファミレスでバイトをしていたことがある。
そこでは1回出勤すれば、メニューから1食賄いを食べさせてもらうことができた。

和風ハンバーグ定食、ミックスフライ、マグロのたたき丼・・・
ほとんど外食をしない家庭に育った私は毎回迷いに迷い、だけどワクワクしながら選んでいた。

「どれが一番美味しいですか?」
ある日、ランチどきを仕切っていた、ベテランパートさんに質問した。
彼女はたばこの煙をスパーっと吐き出してこう言い捨てた。

「本当に美味しいものなんて、ここにはないわよ」

当時の私には、これはなかなかインパクトの強い一言だった。




この春、人生ではじめて生の筍を買った。

もともと買うつもりは全くなかった。
ただ、たまたま立ち寄ったスーパーで、それはいかにも「みんな買うよね?これ主食だよね?」って勢いで山になって売られていたのだ。
そして次々にベテラン主婦たちが立ち止まり、品定めしては目の前でぽんぽんとカゴに入れていく。

私は普段タケノコなんて食べもしないのに、ついついその場の空気に押されるように立ち止まった。
「はい、もちろんこれが主食ですので」って顔で、分かりもしないのにアレコレ見比べて、ついつい買ってきてしまった。

帰宅後、ネットで調べながら筍を茹でた。

先を斜めに切り落として、真ん中に包丁で切れ込みを入れる。店でもらった米糠と唐辛子と一緒に1時間ゆでる。
1日そのまま鍋で寝かせ、翌日、おそるおそる皮をむいた。
どんどん、どんどん、これも皮?皮ですなぁ、って具合に皮がむけて、最後にはプリッと小さくて白い「たけのこの水煮」が現れた。かわいい。ちょっと感動した。

半分は筍ご飯に、もう半分は筍のバターソテーにした。
結論からいうと、どちらも、とっても美味しかった。

料理のジャッジに飽きれるほど正直な夫が、「また作ってほしい」とぼそりと言った(これは筍ご飯)。
歯応えのあるものを嫌ってすぐに吐き出してしまう息子も、やわらかい穂先に「合格」の笑みで、あげればあげるだけ食べてしまった(これは筍のバターソテー)。

小ぶりの筍を選んだからか歯応えが優しく、ほのかに自然の春の苦味がした。市販の水煮のようなえぐみは全くなく、爽やかでかろやかな、春そのものみたいな味だった。
どうしてこんなに美味しいものを、今まで買ってこなかったんだろう。

この春、こういう気持ちになったものがもうひとつあった。鰆である。

息子が保育園に入園するための「離乳食食材チェック表」にあったそれは、店で見るとすこしパサつきそうで、価格も他の切身より高い。

一瞬、しれっと「食べた」にマルをしてしまおうかとも思ったけれど、最近「人生においてなるべく後ろめたいことを減らした方がいい」と思っている部分もあり、買うことにした。
2切780円、もう大奮発と言っていい。

切身を一枚、グリルの真ん中に堂々と置き、ほんの少し塩をかける。
息子はパサつきに厳しいので、焼きすぎないよう注意深く火を通した。

毒味までにひと口いただく。
これがもう、想像を遥かに超えて美味しかった。

パサつき感はまったくなく、むしろしっとり、身はほろほろに柔らかい。
噛みしめるとわずかな塩味、その向こうに海の旨味がひろがっている。
迂闊だった。こんなに美味しい魚を知らずに生きてきたなんて。

魚嫌いのはずの息子も、意に介さずパクパク食べた。美味しいものはわかるんだなぁ。
どうせ食べないと思って、息子の残りをもらう気でいたのを後悔した。新鮮なうちに2枚とも焼いてしまえばよかった。

ともあれ無事「食べた」にマルをして、チェックリストを保育園に提出した。

私はこういうことがわりと好きだ。
つまり、筍を炊いたり、梅シロップを漬けたり、こんにゃくを作ったり、桃ジャムを煮たりするようなこと。
あるいは、買ったことのない魚や野菜、塊肉なんかを四苦八苦しながら料理すること。

生の筍を買うことも、はじめての魚を買うことも、ほんの少し「頑張る気持ち」が必要で。
その気持ちが出てこない時ももちろんあるし、筍を煮なくても、鰆を食べなくても、もちろん生活はまわっていく。無理して疲れてやることじゃない。

ただ、それでも一度やってみると、不思議とすこし元気になる。
やってみれば、思っているよりも少ない心理的・時間的な労力で、美味しいものが手に入ると知る。

スーパーやコンビニやチェーン店には並んでいない、生粋の「美味しいもの」と出会えた時、私はとびきり嬉しくなる。
あるいは新しい魚を買うように、少し冒険をして、知らなかったものを知れた時、「生活」が少し強くなったような自信がつく。


以前、糠床を始めたときに、どうしても美味しくなくて伯母に相談したことがある。
その時伯母は、祖母から引き継がれて育てていた糠床を少し分けてくれた。それを入れると、もう見違えるくらい美味しくなった。

都会に核家族として生活していて、さみしいなあと思うのは例えばこういう時だ。
糠床を分け合える人や、「あら、筍炊くのなんて簡単よ」と教えてくれる先輩が身近にいないとき。
「この塩が美味しいよ」とか、「こんにゃく作ったから少し持っていきなよ」とか、そういう会話ができる人がいない時。

そうした日常のちょっとした工夫や、「本当に美味しいもの」に出会えた感動、そこまでのちいさな冒険を、誰かと分かち合えたらいいなあと思う。

私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。