小説『みそラーメンの味』(2104字)

「人間って本当に伝えたいことの一割も言葉にしないまま死んでいくのかもしれない」
 なにも、かっこつけて言ったつもりなんてなくて、ただ、溜息みたいに、ふと、口をついて出ただけだったのだけど、呟いたタイミングが、盛り上がっていた隣のグループが馬鹿笑いした後のほんの一瞬の沈黙と重なって、僕の言葉は意味深に響いた。隣の馬鹿笑いを虚仮にしているようにも響いてしまった。
「俺は言いたいことは言う主義だぜ」
 Kが格闘技をしている太い腕でビールジョッキを持ち上げ、こちらの席に寄ってきた。メガジョッキという大ジョッキよりも一回り大きいサイズを軽々と持ち上げて、誇示するように半分ほの飲み干した。
「Kさんは何でも言いますよね」
 佐野さんが言った。すると、Kは店長の指示に物言いして撤回させた話を始めた。三回か四回、聞いたことがある話だった。
 Kが佐野さんを狙っているという噂は、バトの全員が知っていた。僕の呟きは彼女を口説いているように、Kの耳には聞こえたのかもしれないが、佐野さんには大学のサークル内に付き合って三年になる恋人がいて、Kにはこれっぽっちも興味がない、ということもK以外はみんな知っていた。
「とにかく、俺は思ったことは、何でもすぐにやるし、言うようにしてるんだ。迷ったらダメなんだよ」

 そんな何年か前の呑み会のワンシーンを、ふと、思い出したのはみそラーメンを茹でていたからだ。火曜日の夜――いや、夜から起きていてもう水曜の朝になっている。買ったきり途中で止まっていた二十四人の作家の作品が入っている短編集の、初めて読む作家の小説を読んで、なんだかくたびれて、この作家の本は二度と読まないと思ったりしたけど、調べてみると別の作品は良さそうだと思ったので、それならいつか読んでみてもいい、なんて思う。でも読みたいかと問われれば、読みたいようなものではない。たぶん、僕は読みたいと思って買ったはずの本棚に読まないままの本を残して死んでいくんだと思う。
 で、どうしてみそラーメンかというと、短編集を読んでいたら体が冷えたような気がして、あったかいものでも食べたい気がして戸棚を開けたらインスタントラーメンを見つけたからである。正方形の袋に入った鍋で茹でるタイプでしょうゆと、みそと、とんこつが入っていた。むかしはみそが好きだった。母が好きだったからだ。母はラーメンはみそと決めつけていた。父はみそは辛いといって、しょうゆしか食べない。弟はどちらも食べるので、どちらのが好きか知らない。
 ともかく緋片家でしょうゆとみそが常備されていて、めずらしくとんこつが入っていたのは僕が買ってきたものの、茹でてみたら味が薄くておいしくなかったものが残っているせいだ。一つ減っているのはたぶん弟が食べた。
 お腹が空いてラーメンが食べたいわけではなくて、あたたかいものを啜りたいだけだったので、しょうゆの気分だったが、前回もしょうゆだったので、みそを食べたい気もした。とんこつも片づけなくてはいけないような気もした。順番に袋をつかんで、結局、みそを茹で始めたのである。
 冷凍庫をあけたミックスベジタブルがあったので入れた。薬味用に葱がプラスチックパックいっぱいに入ったのがあったので、それも入れた。たまごも落として、白味の半透明が白くなるまで茹でた。
 ある人が、風邪気味で一緒に月見うどんを食べたときに、たまごの半透明の部分が苦手だと言って箸ですこし掻き回して熱で白くしていたときも、僕は「わかる」と言ったけど、たぶん、僕の声に出した「わかる」は、僕の思っている「わかる」の一割も伝わっていなかったと思う。そのことを伝えることも、もうないだろう。
 鍋から丼にうつして食べた。
「おいしい」
という言葉が浮かんだが、本当においしいのかはわからなかった。インスタントのみそ味だった。はっきりした、誰でもみそだと感じるみそ味だった。親切の上で食べさせられた好みでない味付けの煮物よりは、おいしいものだと思う。いつも一緒で、無難な味。
 お腹がふくれて、これから寝なくてはいけないと思うと気が重くなる。
 あたたかいものが啜りたかっただけなのにラーメンを食べている。こんなもの食べたくなかった。じゃあ、本当に食べたかったものって……?

 Kはみそラーメンを注文していた。グループの呑み会で、他に食べる人がいるかとか、自分だけで食べていいかと断ることもなく、注文して、ぺろりと平らげていた。
 会計はいつものとおり割り勘だった。Kのラーメン分をそこにいるみんな(その中に佐野さんもいる)が四〇円かそれぐらい支払っていることを考えたことがあるのか、僕が口に出すことはなかった。同じようなことを思っている人がいたと思うが、誰も言わなかった。思っていることを口に出すよりは、四〇円払うほうが楽でもあった。
 思ったことはすぐに口に出すと公言していたKも、佐野さんに思いを告げることはなかった。僕の知らないところで起こってたとしたら知る由もないが、もしもKが告白して振られたなんて話は、すぐに回ってくるだろうから、やっぱりなかったと思う。Kも彼女への気持ちは口に出さないまま死んでいくのだろう。

(了)