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シニア夫婦と一匹 車中泊旅行 浄土ヶ浜 陸前高田市 南三陸町 女川町 震災遺構をめぐる旅

【津波てんでんこについて】
「津波のときは各自がてんでばらばらに、ひたすら高台に逃げる」と言う意味です。津波のように一刻を争う災害避難の場合には、自分の命を守る行動が結果的に多くの命を守ることにつながるという実践的なルールです。

この行動を実践するためには次の4点について家族、学校、職場、地域などの集団で日頃から事前に十分な話し合いを行ない、全員が理解し合意できるように準備することが必要不可欠です。

1.自分の命を自分で守るために他人に構わず率先してひたすら逃げることだけを考える。
2.逃げる姿を周囲に見せることは見た人に避難を促すことになり、多くの命を救うことになると理解する。
3.家族や集団で事前に「津波てんでんこ」を理解し、全員合意の上で必ず実行することを約束する。
4.結果にかかわらず(不幸な結果でも)、約束を守れば決して責められることがないことを全員が確認する。

自分だけが逃げるということが独り歩きすると利己的な行動を推進しているように見えますが、他人のことはどうでもよいという考え方ではありません。あらかじめ互いの行動を決めておくことで離れ離れの家族を探して無駄に時間を取ったり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐことが本当のねらいであり、一刻を争う避難の場合は非常に有効な方法であることが結果で示されています。最初に逃げることは後ろ指さされるのではないかとためらわれます。しかし、率先して逃げることこそ周囲に避難を促す影響を与える勇気ある行為であると考えるべきです。丁寧な話し合いによって上のような4つの合意を形成し確認することが「津波てんでんこ」の前提であり、それは互いの信頼関係によって成り立ちます。

幼児、お年寄り、病人、怪我人、障がいのある人といった「災害弱者」を誰がどう救うのかという問題は残ります。「津波てんでんこ」は、全体としての犠牲者を最小限にするために、多くの人が即座に行動することを重視しています。しかし、災害弱者を見捨てる結果になりかねません。これは非常に難しいジレンマであり、全ての命が平等に価値があるという信念と、多数の命を守るためのルールの間での葛藤が起こります。「災害弱者」が見捨てられるリスクを減らすために「災害弱者」に関わる人々は、どのようにして速やかに安全に避難させるかについての緻密な準備をしなければなりません。各家庭、老人施設、病院、障がい者施設が自主防災組織や地域コミュニティと連携し、災害弱者を特定し誰が誰に関わるのか、どう助けるのか、避難計画を個別に場合別に策定することが必要です。その中で徹底して事前のシミュレーションと訓練をしながら救助の可能性を高める努力が必要です。しかし東日本大震災では消防団員,自主防災組織メンバー,民生委員などが救助対応にあたることが暗に期待されすぎていたことは結果として否めません。これらの人々が非常に多く津波の犠牲になった事実がそれを物語ります。精神論ではなく、現実的な救助について限界を理解することも合わせて考えていくしかないように思います。ジレンマの中で「津波てんでんこ」の考え方を維持しつつ弱者を守る可能性を高めるバランスを事前の準備で冷静に確認していくことが求められます。


浄土ヶ浜でサッパ船に乗り、青の洞窟の中に入りました。おそろしく綺麗でした。三陸海岸沿いに震災遺構をめぐりました。陸前高田市の奇跡の一本松、南三陸町防災庁舎、旧女川町交番を回り、大震災から13年後の被災地の復興のようすを見ました。

震災や津波で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、かけがえのないご家族やご親族、ご友人を亡くされた方々にお悔やみ申し上げます。

浄土ヶ浜に行きました。恐ろしくきれいな海です。上流の川ということではなくてこれが海であることが信じられないほどの透明度です。底の石がはっきり見えます。白い浜と波のない澄みきった海を見ると昔の人が浄土と名付けたのが、なるほどという感じです。復興国立公園となっています。サッパ船という小型の船に乗って浄土ヶ浜湾内や青の洞窟を遊覧します。約20分で一人1500円です。青森の八戸まで続いているという伝説があって八戸穴と言いますが、陸中の青の洞窟とも言われています。白い流紋岩が斜めの柱状になっています。頭を打ってはいけないので皆さんヘルメットをかぶっています。岩に着色してあるように見えるほどですがそんな事はないです。海のエメラルドグリーンが反射して青く見えます。青の洞窟ということで青い色のソフトクリームを食べました。
浄土ヶ浜から2時間弱、三陸海岸を南下して陸前高田市です。道の駅高田松原に車を停めて
広大な原っぱを500mほど横切り、海岸に向かいます。このあたりの海岸は高田松原と言って、350年にわたって植林されてきた7万本の立派な松が茂っていましたがその松原も今は巨大な防波堤に変わっています。2011年3月11日の東日本大震災の津波の直撃で
ほとんどの松が根こそぎ倒されて松原が壊滅しました。その中で松原の西の端にあるユース・ホステルの近くに立っていた一本の松が何とか津波に耐えて、立ったままの状態で残ったということです。やがてこの木は震災からの復興への希望を象徴するものとして「奇跡の一本松」と呼ばれるようになって大切にされていました。しかし震災1年後、松が枯れてしまったことがわかりました。その後、この木は復興のモニュメントとすることになり心棒を入れて補強したり枝や葉を複製して、元の場所に再び立てられています。この松は明治三陸地震の津波や1960年のチリ地震の津波も経験したと言われています。下の方の枝がそれらの津波でもぎ取られていたので大震災の津波で流されてきたものが引っかかりにくかったり
ユースホステルの建物自体が防波堤のように作用したので倒れなかったのではないかとも言われています。尚、この松に残されていた松かさの中の種や接ぎ木によって遺伝子を継承する跡継ぎの松は何本か育っているということです。ユースホステルは砂地の地盤が大きくえぐられたため、建物の半分が折れ曲がって全壊しました。震災の2か月前から休館中だったので人的被害はありませんでした。辺り一帯の地面も低くなったのか水が溜まっています。沈下した地面にさらに潜り込むようにして1階部分が水たまりに浸かっています。かつては松林に囲まれた豊かな自然の中のユースホステルでしたが今は1本の松のモニュメントだけが隣に立っています。下からは全く海は見えません。防波堤の上に登ります。12.5mの高さがあります。穏やかな海が見えました。この海がこの防波堤に迫る高さまで押し寄せたことが全く信じられませんが現実にあったことです。気仙川にも津波の遡上を食い止めるための水門が作られました。全長2km近くにも及ぶ巨大な防潮堤が出来上がっています。海側に小さな松の苗木が育っているようです。
宮城県の南三陸町に来ました。道の駅さんさん南三陸です。南三陸311メモリアルという震災伝承施設があります。外階段を登って展望デッキに行きました。志津川を渡る橋の左手に小さく鉄骨が見えています。志津川にかかる橋をわたって南三陸町震災復興祈念公園に向かいます。広大な芝生の広場が広がっています。橋を渡るにつれて左に見えていた鉄骨が旧防災庁舎の骨組みであることがわかりました。渡り切った左側はすり鉢状の窪地になっています。離れたところから防災庁舎がほとんど見えなかったのは志津川の堤防や周りの土地がかさ上げされていたからでした。下の方、多分10mほども下の地面に建つ防災庁舎の鉄骨の全容が見えた時、かつての地面がその高さなのだとわかりました。道の駅やさんさん商店街を通ってきましたがそれらは全てかさあげされたところにあるものでした。その高さよりもずっと低い所に建っている鉄骨を見て一体何と言えばよいのか、呆然とそちらに延びる階段を降りました。13年前にテレビの報道で何度も目にしたことを覚えていますが近づくにつれてそれとは全く違う圧迫感を感じました。白い外階段の手すりがぐにゃぐにゃに曲がっています。3階部分にわずかに残る外壁。もぎ取られた細い鉄骨。志津川に向き合う方が正面玄関です。その横には慰霊の花と千羽鶴がありました。43名もの人がここで亡くなったことを想って、黙祷しました。このあと南三陸さんさん商店街にも行きましたが、それよりも震災遺構の話を続けます。
1時間半ほど南下して女川町の旧女川交番を訪ねました。すり鉢状のくぼみの底に旧女川交番があります。周りの土地は全てかさ上げされてもとの地面の高さはこの窪地の下です。草刈りはあえてされておらず、雑草や雑木が生い茂ります。鉄筋コンクリート2階建てのこれは、屋根部分です。それが縦になっているということは交番自体が津波で横倒しになったということです。1,2階の壁部分はなくなり、木が生い茂っています。更に進むと底面が見えてきます。地中深く埋め込まれていた基礎の杭が引き抜かれたり折れたりしています。鉄筋コンクリートの堅牢な建物がこのように基礎から横倒しになることは他に類を見ないことだそうです。津波の威力の凄まじさがわかります。勤務中の2名の警察官は大津波警報発令後、パトカーで避難を呼びかけつつ逃げ遅れた人を乗せて高台を目指していたので助かりました。しかし付近は漁港を中心とした海抜の低い街並で逃げ遅れて亡くなった人、行方不明になっている人は女川町全人口の1割近くにもなるほど悲惨な被害を受けました。
陸前高田市、南三陸町、女川町で一つずつ震災の遺構を回りましたがそれらはほんの一部です。東日本大震災では多くの犠牲者を出し、13年経った今もなお行方のわからない人が多数居らっしゃいます。そんな中で果たして我々が震災の遺構を見に行って良いものかどうか、それをまた動画にして良いものかどうか遺族でも関係者でもない、言わば部外者は
遠慮したほうが良いのかとも思いました。そういうことは今でも何が良いのかよくわかりません。南三陸町の旧防災庁舎はそこで亡くなった方のご遺族や関係者からすれば実にいまわしい被害現場であり、存在自体に心が痛むと思います。そんなものは今すぐにでも取り壊してほしいという気持ちになるのは当然のことです。職員の遠藤未希さんが津波襲来直前まで住民に避難を呼び掛け続けました。そのことは多くの人を救ったに違いないと思います。
しかし、同時に彼女自身は救われなかったことを忘れてはならないです。そのことに対する御本人やご家族の、悲しみや無念があることを想像しなければならないと思います。だから私は旧防災庁舎という震災遺構を犠牲者の慰霊や鎮魂の記念碑であるという、そういう性格だけのものにしてはいけないと思っています。むしろ、この場所から出た犠牲者の、悲しみや無念というものをそこを訪問した人が受け取るための場所なのだと思います。実際に曲がりくねった手すりや折れ曲がった鉄骨を見れば建物をこんなふうにした津波の脅威はもちろんですが目を凝らし、耳を澄ませば犠牲者の悲しみや無念が確かにそこにあると感じました。それを受け取って、持ち帰らなければいけないと思いました。防災のために作られたこの防災庁舎は皮肉なことに「防災の不備の象徴」になってしまったということです。この防災庁舎はチリ地震のときの2.4mの津波の経験をふまえそれよりはるか上、つまり10mほどの十分な余裕を持って地上12mの屋上が作られました。そこは近隣住民も含めた避難場所にすることが目的でした。それでもその避難場所は期せずして「防災の不備の象徴」になってしまった。というのが現実です。しかし、誰がこの高さを簡単に超えてくる津波などを想定するでしょうか。それはつまり、
「完璧な防災など存在しない。だから、事が起こればあらゆる手段でただひたすら逃げることを考え続けなければならない。」
ということを物語っています。陸前高田ユースホステルや女川交番ではその建物から直接的な人的被害は出ていません。しかし、同じ町での犠牲者がものすごい数になることを知っておかなければならないです。その人達が理不尽な天災によって命を奪われた悲しみや無念は
決して無いものにはできません。完璧とも思える防波堤や水門で囲まれ過去の地面の上に莫大な盛り土を載せて嵩上げしたとしても犠牲者の悲しみや無念は決して無いものにはできません。その象徴として震災遺構があるのだと思います。動画を作るにあたっていろいろ調べていると奇跡の一本松の向こうに気仙川をまたいで旧気仙中学校が映り込んでいました。津波は三階建ての校舎の三階にまで押し寄せ、震災遺構となってます。その日、津波を想定した避難場所は、学校近くの駐車場でしたが、教職員や校長の判断で小道を登って高台まで避難し、全員が助かったということです。南三陸でも戸倉小学校の例があります。
3階建ての校舎は簡単に津波にのみ込まれ、屋上の給水塔まで水没しました。
津波を想定した避難場所は校舎屋上でしたが教職員のとっさの判断で高台への避難に切り替えて全員が無事でした。一方で石巻の大川小学校では悲劇がありました。大川小学校は、北上川河口から4キロも離れており、山あいと川の堤防で海も見えず、小学校自体が避難所に指定されていたほど安全である考えられていたこともあり避難が遅れ北上川を遡上してきた津波で多くの児童と教職員が犠牲になりました。明暗を分けたことが何か。何が正しくて、何が間違っていたか結果で検証されるしかありませんし、結果が悪ければ判断の責任が問われます。しかし、ここで責任について私が言えることは何もありません。言えることがあるとすれば、災害の瞬間において、その場でできる最善の判断をすることは困難を極めるということだけです。その時にその場で自分が当事者であった場合に結果を予想して正解を選べるか、そんなことは到底できそうにありません。
「完璧な防災など存在しない。だから、事が起こればあらゆる手段でただひたすら逃げることを考え続けなければならない。」
そういうことしかないと思います。
僅か1日で被災地のことは何もわかりませんが巨大な防波堤や大規模な嵩上げでインフラの再建は進んでいるように見えました。よく整備されたきれいな芝生の広場もあり、
素晴らしいデザインの立派な建物もありました。南三陸さんさん商店街は観光客で賑わっていました。観光が被災地復興のきっかけになるのは素直に良いことだと思います。
そして、さんさん商店街まで行くなら、もちろん少し歩いて旧南三陸防災庁舎を見に行けばよいと思います。それを見て持ち帰れるものは大きいと思います。浄土ヶ浜のサッパ船の遊覧が終わる頃カミさんがこのあたりの被害のことを船長さんに聞きました
「うちの会社は水没しておりますよ」
と、船長さんが言葉少なに軽く返答されたことを覚えています。今は浄土のように美しく穏やかな海も13年前には地獄を経験しています。そこに住む人の生活や心の復興はまだまだこれからなのだろうと思いました。我々が被災地をめぐって家に持ち帰ることができたのは
そういうことでした。我々にとっては意味のあることでしたし、行って良かったと思っています。


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