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ちゃんとした喪服を着るということ

知人が30代の若さで亡くなってしまった。病死だった。
年下だけれども勤務先の業務の先輩として、仕事を覚える上でも精神的な支えという意味でも大変お世話になった女性だった。
訃報に呆然としながら、お通夜に出席するための準備を進める。
喪服のワンピースの背中のジッパーは最後まで上がりきるか、黒ストッキングに穴はあいていないか、香典袋はあるか、香典袋に入れるお札はあるか、薄墨の筆ペンのインクはあるのか、黒い靴やバッグの状態は大丈夫か。
靴底が剥がれていると気づき、慌ててリペアに持って行く。悲しい気持ちはお通夜の最中に存分に味わおう、それまではあまり深く考えないように。そう思って淡々と、やるべきことをやっていく。

私は30歳の時、喪の服飾品一式をそろえた。
もともとは30歳になったらブランド品というものを一丁買ってやろうと、月々のお小遣いをコツコツ貯め、数年かけて十万円以上に積み上がったお金だった。
30歳になった時いざブランド品を買おうとして、でもどうしても大金をはたいてまで欲しいと思えず、躊躇していたタイミングでたまたま読んだ小説の中に「就職して初めてのボーナスで喪服を買う女性」の話が出てきて、それは素晴らしい使い道だと感銘を受けあっさり宗旨替えしたのだった。
当時、お葬式に呼ばれるより結婚式に呼ばれる機会の方が圧倒的に多かった年頃に、喪服一着に8万円も投じるのはさすがに勇気がいった。実際、初めてその喪服の出番が来たのは購入して10年後のことだった。購入して今年で13年目で、使用回数はこのお通夜で3回目である。この服の登場回数は少ない方がもちろん良いわけだが、値段を着用頻度で割るという意味であればコスパの悪い買い物をした。それでも、今夜のお通夜の支度をしながら、あの時きちんとした喪の装いをそろえておいて良かったと心から思うのだった。
弔いの儀式にて、亡くなった方を悼む気持ちを表すに最も伝えやすい表現方法が、自分の装いだからだ。着用頻度が少なくも、その場で気持ちを表すというパフォーマンスに大いに貢献している。そういう意味でのコスパは、決して悪くない。

デザイナーだった母は父のスーツをあつらえた時、「黒は布地の善し悪しが一番わかりやすいから、黒の生地を選ぶときは慎重に、値段もある程度はケチらないようにしないといけないのよ」と言っていた。
そうなのかなあ、と正直懐疑的だった。
私は普段のおしゃれ着で黒を選ぶことが多いが、黒はむしろ高見えする色だと感じている。ファストファッションブランドのペラッとしたナイロン素材でも、黒であれば安っぽさが軽減されてそれなりに見えると思っている。
が、それはあくまで日常の話であり、お通夜やお葬式といった非日常では母の言うことが正しいと、今回考えを改めた。日常で全身黒の装いをするのはごく少人数だが、葬儀においては出席者全員が全身黒である。全員が黒を身につけると、同じ黒でも布地によって色味も見え方もまるで違うとわかる。
喪服にどれだけお金をかけるか、考え方も価値観も人それぞれでよい。人からどう見えるか、なんて気にしなくても良い。
ただ、私はきちんとした喪服を着ているのだ、と自分で思えるのは、心強いものだ。

20代前半の頃、友人Nの祖母が亡くなった際に喪服を持っておらず、普段仕事で着ていた黒スーツで駆けつけたことがあった。受け取ったメール文からNの動揺が伝わり、Nを少しでも励ましたいとの思いから決めた出席だった。
20代前半で社会人になりたてという身分だし、黒いスーツの出席でも許されるだろうと判断した。礼儀にうるさい母も、喪服かどうかよりもお悔やみを伝えたいという気持ちの方が大事だから大丈夫よと言ってくれた。友人NとNの両親は、駆けつけた私に「うるちゃん、来てくれてありがとうね」と言ってくれた。行って良かった、と思った。
しかし、自分が普段も着ているスーツで出席している状況に、式の最中ずっと落ち着かなかったのも事実である。誰も私をとがめたりしなかったし、私が何を着ていようと気にする人は皆無だった。けれど私自身は、今身につけているこの服は昨日得意先の営業にも着て行った、いわばいつもの仕事着だと知っている。周りを見れば、私のようなあり合わせのスーツ姿の大人は一人もいない。
悲しみのまっただ中にいる友人Nのことを慮って出張って来たはずが、始終ソワソワとして場に集中することができなかった。
30歳の時に先の小説を読んで、真っ先に思い出したのがこの件だった。友人Nは感謝してくれたが自分の中で「やりきった」と思えない、心残りのする思い出。これが後押しとなり、喪服の購入を決めたのだった。

今夜のお通夜で、私はきっとすごくすごく泣いてしまう。
今まで立ち合った死の中で最も若く、身近だった存在。
新しい仕事に緊張気味だった私に気さくに声をかけてくれたこと、性格診断の結果を見せ合って笑い合ったこと、職場恋愛の噂を教えてくれたこと、彼女の仕事哲学を聞いて背筋が伸びたこと。全部を思い出しきれないほど、たくさんの出来事、時間をともにした。
今夜はたくさん泣いていいのだ。そのための時間なのだから。泣いて泣いて、式が終わったら一区切りとして、悲しい気持ちは心の片隅に置いて、また明日から日常を生きるのだ。
お通夜の間、悲しみに浸りきる。辛い別れに集中するために、私はきちんとした喪服を持っていて良かったと思う。自分が何を着ているか、そんなことに気が散ることなく、彼女の死と正面から向き合うことができるから。

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