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日々、当たり前にしていることを大切だなって思える…という習慣こそなので。
それは自然と自分の深いところに刻まれるものなんだと思いますね。自分を大切にすることと同じことなのかもです。
体が自然とその行動を、
心臓が私自身の意識とは関係なく動いているのと同じように、
起こしている当然の行動と言いましょうか……
まあ確かに、いつも当たり前のようにやってしまっている悪いクセ……に関しては、それが大切なことなのかどうかは疑わしいですけれどね。
私にもあります、当たり前のようにやってしまっている悪いクセ(自分が一人でいるときにやってしまっているクセです)が(笑)
その習慣化された行動が誰かに害を与えるもの、もしくは不快を与えるものではなくて、ただ自分にとって日々心地よく健全な生活が送られるものであって、特に誰かの目を気にして行っているものではない(他者に認めてもらいたいが為のポージングとかではない)。そういう習慣というのは強く意図していなくても自然と風が流れるように行えてしまうもの……じゃないでしょうか?それをすることが私自身に課した義務にはなっていなくて、私にとって苦痛ではなく心地よいことなので。少なくとも私はそうですね。
「義務と習慣化」に関してはこのテーマの趣旨とは少し違うので、この記事に含めて書くつもりは毛頭ないですけれど、まあいつかそんなテーマでも書いてみようかしら?😅
その習慣化された私の行動が自然と誰かの為になっていたり、小さな狭い地域の為になっていたりすることもあって、ご近所のご年配の方々から「ありがとうねえ」と言葉を掛けられることもしばしばあるのですけれど、私にしてみれば空気を吸っているかのように当たり前にやっていたことでしたので、そうやって感謝されても「え?……ありがとうって何が?」とむしろ不思議に感じてしまうこともあったりしています(笑)
でも「ありがとう」って言ってもらえて、心が温かくなることも事実なので、そのように言ってもらえて私のほうこそ有難う(有り難いこと)なのです。
そしてそれを大切なことだと自分の意識にすくい上げたとき、もしかすると自分の持っている顕在化するのが難しいような魂レベルの〝何か〟を喜ばせたりできるのかもしれないなあと、このテーマに触れて改めて考えることができました。
大切だと思える習慣があること。
つまりそれは、言い換えるとすれば
「自分を大切にすることができている」
ということなのかなと思うのです。
今この記事を書いていてふと浮かんで思ったのですけれど、私は毎朝、顔を洗ったあとに鏡に映る自分に「いつもありがとう」って三回くらい繰り返して言葉を掛けているんです。
急性心筋梗塞で倒れてそのまま本当なら隠世(かくりよ)の住人になっていたはずなのに、こうして生かされて……3年前のそのとき以来、本当に有難くて自然とするようになった毎朝の儀式みたいなもので。
これも私にとっては大切な習慣(…習慣を意識した行為ではないけれど、習慣かどうかと言われたら習慣になるのでしょう…)なのかもしれませんねぇ(笑)
見出しの写真はウチの玄関ホールに飾っているユリの花を撮ったものです。〝花買い開運法〟で15日の土曜日に買ってきた切り花なのですけれど、風通しの良い場所なので、ウチの中の何処にいても心をくすぐるような幸せを感じるユリの花の香りが漂っています。ユリの花の匂いって大好きです😊
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