社畜の活用
「昨日の夜中の11時ごろに担当者が資料送ってきてよぉ。
まだ中身見れてないんや」
これはある会議の直前に、現場課長のA氏が管理部門のスタッフである私たちに言い放ったセリフだ。
私たちの会社では、各部門の課長が、部長や、私たち管理部門のスタッフに対して月1回収支状況を報告することとなっている。
説明用の資料は現場の担当者が作成し、現場内での作戦会議が完了した後に、収支会議に臨むはずなのだが、どういうわけか冒頭のようなセリフが飛び出してきた。
自分の現場の中で済ませるのならまだしも、管理する立場の我々に愚痴ってどうするのか?
「それは大変でしたねぇ」とでも言って欲しいのか?
報告のクオリティが低いことを咎められたくないのか?
正直どちらでも良かったが、とりあえずその場はA氏の報告を聞いて、会議を終えることとした。
しかしその会議の帰り道、私は少々疑問に思った。
A氏は勤続30年で、現場で20年近く働いてきた大ベテランである。
それなりにしごかれてきているはずなのになぜあんな体たらくなのだろうか?
私たちの仕事は製造業に属している。
管理部門はそうでもないが現場は結構過酷だ。特にトラブルへの対応が。
現場では何10tにもなる部品をクレーンで頻繁に運搬している。クレーンの運転者が誤ってその部品を地面に落してしまえば、人が怪我していようがいなかろうが、謝罪のうえ、原因と対策を織り込んだ報告書を客先に提出しなければならない。
そのため、休日で飲み歩いていようが、寝ていようが、彼女とデートしていようが、電話1本で現場へ急行しなければならない。瀕死状態であっても関係ない。逃げることは許されない。
A氏は勤続30年、現場で20年以上やってきた大ベテランである。
確実に何回も修羅場は潜っており、能力も身についているはずである。
なのに定例会議の報告準備すら満足にできない。
なぜこのようなことが起こるのか?
それは誰かが作った流れに従うやり方から抜け出せなかったからではないか。
新人の時は誰もが必死に業務に食らいつくものだ。
周りが当然のようにやっていることを自分はできず、咎められ、涙したことは誰しもあるだろう。
毎日背伸びをしても到底超えることのできない周囲からの要求に怯えながら、自分を奮い立たせてなんとか毎日を過ごしていく。
周囲からの目は冷たいながらも、「できなかったこと」を少しづつ「できること」にしていく。組織への貢献は小さいながらも、自身の成長への喜びが確実にある。A氏もそんな毎日を過ごしていたはずだ。
いつしか「できること」が増えていき、自分を奮い立たせなくても仕事は回るようになる。業務の流れを断ち切ることのない「流れ作業」の要員として申し分ない働きができるようになるが、おっさんに近づくにつれて別のやり方が求められる。
会社が提示した目標を自分の組織に置き換え、日常の業務に落とし込み、グループの要員に割り振っていく、自らスケジュールを組み、要員の力量と伸び代とを秤にかけて、その時々の最適解を追求し、最高打点を更新するようなやり方にシフトチェンジしていかなければ、思うように仕事は回らない。
若手の時は誰かが作った流れに対応するだけでも試行錯誤を繰り返さざるを得ない。しかし半端に能力が身についてくると、こなすだけならば苦もなくできてしまう。
それっぽい言い訳を書き連ね、その場をやり過ごすための口上を考えることなど、そこそこの経験値のあるおっさんにとっては朝飯前だ。
意味はないけど。
収支であれば未達分の売上をどう補填するか。その施策の検討に時間を割き、会議の席でその施策の是非は問われなければならない、が、
本来の目的を忘れ、いつしか目の前の業務をこなすことが目的になる。
「流れ」を生み出さなければならない立場であるにも関わらず
誰かが生み出した「流れ」に従って、ただただ現状維持を良しとする態度から抜け出せなくなった、そんなところではないだろうか。
少し前に猫山課長さんのnoteにて日経クロストレンドの昔の記事が紹介されていたが、日本人の95%は働きがいを感じていないとあった。
A氏はここでいう95%の働きがいを感じていない社員に該当するのではなかろうか?
仕事に対して働きがいなど求めておらず、可もなく不可もなく平穏な日常がエンドレスに続くことだけを求めている。
A氏だけでなく、私を含めた多くの日本人はこの状況に陥っているのではないだろうか?
生きていくうえで「流れ」を生み出す、すなわち自ら行動を起こすということは自然なことだ。
大学受験では勉強部屋にこもり、少しでもいい大学にいくために勉強する。
場合によっては学習効率を上げるために予備校にもいく。
学歴は多くの人にとって初めて自力で勝ち取ったものになるのだろう。
A氏に代表される「流れ」に従うやり方では、喜びなどの感情の起伏が起こり得ない。なぜなら自ら作り上げていく・勝ち取っていくという意思がないからだ。
こんなことでいいのだろうか?
我々は何のために生きているのだろうか?
生きていく中で多くのことを学び・経験したことを他人様に還元する。
その結果感謝されることに生きがいを感じる。
出会った仲間とかけがえのない時間を過ごす。
人によって様々で目的などないという人もおられるのだろうが、
少なくとも大した喜びも幸せも実感することのない生活をするためではないはずだ。
誰しもなんらかの形で世の中や他者にいい影響を及ぼしたいとは心のどこかで考えているのではないだろうか。
そのための1つの方法としては仕事に打ち込むことがある。
しかし働きがいを感じていない95%は、仕事のことなど考えたくないという人が大半だろう。
もっと簡単なことから始めないといけない。
まずは身近な人を喜ばせればいい。そんなに難しくはない。
旦那さんは家に帰る時、奥さんに花を買って帰ってはどうだろうか。
花屋が近くになければコンビニのスイーツでもいい。そんなに高いものである必要はない。とりあえずやることだ。自分で「流れ」を生み出し、何かをつかみ取ることが重要なのだ。
運よく喜んでくれたら、次は風呂掃除、食器洗い、夕飯の準備等をすすんでやっていく。
するとどうだろう。
奥さんが上機嫌になる頻度が増え、家の中が快適そのものになっていくはずだ。自らアクションを起こすことも悪くはないと思えてくるのではないだろうか。
そうしてただやり過ごすだけだった仕事に丁寧に取り組むこととなる。
最初は誰も気づかないだろうが、あなたが取り組んだ仕事には力強さが加わっていく。周りの見る目も徐々に変わっていくことだろう。
意味不明なことでキレてきた上司もそうではなくなるかもしれない。
意見を聞いてくれるかもしれない。ウザくて仕方なかった上司が関係各所に根回しをし、あなたの背中を押してくれることも起こりうるのだ。
もちろん全てが解決するわけではないが、予想以上に多くのことができることに気がつくだろう。
そうして「あなた」は捨てたもんじゃない「あなた」に気がつくのだ。
会社にいれば理不尽は身に降りかかってくる。やってられないと感じることもある。しかし幾つであろうがあなたがまだ手にしていない喜び・楽しみを手にしない理由にはならない。
共に生きていきましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?