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SS【深淵のテリトリー】


男は数年前に離婚し、家族と住んでいたアパートを飛び出した。

その頃からいくら寝ても眠い日が続いた。

男は仕事や通勤以外のほとんどの時間を家で寝て過ごした。


ここ数年は世界中で異常気象か続き、一年の半分くらいは冬の寒さに見舞われている。

世間では氷河期の前兆か世界の終わりかと騒がれていても、奥さんや娘と離れ、孤独になった男にはどうでもよいことだった。

チンすれば食べられる温かい食事と、暖かい寝袋があれば十分だった。

玄関の扉を開けると小さなキッチン。その先にある四畳半の部屋。

年寄りの一人暮らしが多いせいか灯油を使った暖房は禁止だ。

スーパーも駅も遠いが、家賃は安いし男にとっては絶対に手放したくないテリトリーなのだ。


ある日、数ヶ月ぶりに娘たちが訪ねてきた。

もちろん元奥さんの姿は無い。

娘の話では今までしていたウエイトレスや掃除の仕事がロボットに奪われ、これといってスキルの無い人間は、ロボットも故障するような過酷な環境での仕事しか残されていないようだ。

生活保護は不正受給する人のおかげで受給のハードルが高くなり、なんだかんだと理由をつけては断られるらしい。

貧困層の最後の希望だったベーシックインカムも発動されることはなかった。


娘たちは少しやつれたようにも見える。

元奥さんは心を病み、家から一歩も外に出ようとしないらしい。

ぼくは娘たちにファミレスでご馳走した。

ぼくの懐事情を察したのか、娘たちは一番安いメニューしか頼まず、追加で頼もうとしたピザも遠慮して断った。

食事が済むと、またいつでもおいでと言って、部屋の合鍵を渡して別れた。


それが最後の別れになるとは、その時のぼくには想像すらできなかった。


それから半月後。


一週間ほどLINEの返信が無く、電話も繋がらないので、ぼくは様子を見に行くことにした。

そこでぼくが目にしたものを語る力は、ぼくにはもう残されていない。


娘たちの葬儀が済んでから、かれこれ一ヶ月くらいは何も食べていないからだ。

元奥さんが部屋で命を絶ち、それを知った娘たちも後を追ったのだ。

凍える寒さの隙間風が吹き込む環境が腐敗を遅らせたのか、それほど匂いは気にならなかった。


ぼくもそろそろ逝けるだろうか?

ぼくは自分のテリトリーを守ることばかりに意識を向けて、本当は一家の大黒柱として一番守るべき家族のテリトリーをないがしろにしていたのだ。

早く氷河期がやってこればいい。

すべて凍りついてしまえばいいのだ。

最近はそう思う。

そんなことを考えているうちに、ぼくはまた眠くなってきた。

もう守るものは無い。

あるのは、この果てしなく暗い、深淵のテリトリーだけ。

ぼくは最後の言葉を呟いてから眠りについた。

二度と覚めることのない永遠の眠り。


「願わくば世界中の悲しみが凍りつきますように」


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