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わたしは教師と言う人種が嫌いだ。

だって一番信用できないもの。
子供の世界の中で君臨する大人、それが教師である。
学校という枠組みの中で一番信用できない大人が教師であったため、大人になることに対してアレルギー反応を起こす原因になった。
ちょっとした不信感、とかならまだいいのだが、わたしの通っていた学校はばかすか自殺、自殺未遂、「何らかの諸事情により」転校、不登校が発生していた上に教師陣がそれぞれ事件に対して訴訟を抱えていたため移動もできないような地獄を煮詰めた職員室で、そこは完全に信用してはいけない大人の掃きだめだった。

学校で学んで役に立っているのは「他人を信用するな」「大人は事なかれ主義である」「表面を取り繕うことがうまいやつほど中身がえぐい」というあたりだろうか。教師は日々生徒に振り回され、生徒は親の権力を笠に横暴を繰り返す。これが漫画の世界だったらよかったのだが、現実に起こっているのでたちが悪すぎる。
ちなみにわたしの代でもいじめによる自殺者と転校者が出ているのだが、主犯格の一人は某旧帝大を卒業し省庁勤務、また別の子は医大を卒業して医者になっている等と立派なエリート街道にみんないるらしい。これじゃあ日本が沈没していくのも当たり前と言うものである。自分よりも頭の悪い人間を物の数に入れていないのだから、さぞ人口の少ない日本で生きているのだろう。……が、この話はまた別の機会にしよう。

話を戻すと、そんなクソガキで済ませていいようなレベルではない問題を起こしているクソガキどもを制御しない大人が嫌いで、基本的に教師とは関わらなかった。不信感しかない上にいじめやらなんやらをもみ消す人種である、と生徒にもバレているのだから相談なんてするはずもなかった。
あの頃相談できる、頼れる大人がいたら何か変わったのだろうかとは思う。多分ここまでわたしがぶっ壊れることはなかったとは容易に想像は付くが、そんな仮定を話したところで仕方がない。でも、その時確かに損なわれたわたしという存在の供養を、どうやってしたらいいかなと考えていた。

かつての頼りない大人を恨もうか?
でもそんなことしたって何の解決にもならない。牛の刻参りの藁人形と釘で殺せるなら一考の価値はあるが、そんなものは迷信だ。恨むという負の感情は強いものなので、その感情を灯し続けることがいまのわたしには出来ない。鬱病はそんなに強い感情を思い浮かべることなどできない、というか出来たとしても一瞬でふわっと消えるしそれ以上に疲弊する。やりたくない。
嫌いな人間のために疲弊する必要があるのか?答えは明確に否である。

加害者や見て向ぬふりをしていた人間に制裁を与えたいか?
正直もう二度と一ミリだって関わりたくない。
わたしは環境に対する強度のストレスにより幼~中までの記憶がほとんどない。こうやって書き起こしていると普通にPTSDで吐いたりするレベルで拒絶があるが、なんとなく覚えていることは書き留めた方がいいのではないかと思ってこうやって自虐に近い形で書いているに過ぎない。なので自分からストレス源に近づく気はないし、わたしのかかりつけ医にもやめておけと言われている。

ではどうしたいか。
布団をかぶって丸くなりそのまま朝には冷たくなりたい。

しかし人間、そう簡単には死ねないのだ。
死ねないので働かなければ生きていけない、おまんま食い上げである。なのでわたしは、わたしがやられて嫌だったことを絶対にしない変わった講師になった。

されたくないこと、されたくなかったことを絶対に他人にしない、という理念のもと行う仕事はそれなり適性が高かったようで、いまも現役で職務は遂行している。
やっぱり不登校やらなんやらは現役で存在していて、心を悩ませる子が多い。そう言う子に、当時の自分が欲しかった言葉を掛けられる立場と言うのは案外悪くないものなのかもしれない。わたしの見た地獄はの光景が、誰かの心に寄り添えるのであればそれは無駄な経験ではなかったのだと、思う。

わたしはわたしが嫌いである。
わたしは教師という存在が嫌いである。
私は自分が嫌いなので、己の天敵である教職についたところで「嫌いなものが嫌いなものになっただけなので特に何も変わらない」という認識を持っている。だから多分、自家中毒を起こさないで済んでいるに過ぎない。

好きなもの、嫌いなものははっきりと示す。それは我儘ではない。その好き嫌いを振りかざさなければ、幾らでも共生できるのだ。

だからわたしは、わたしが嫌いだと口にする。

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