保育園も先生も嫌いだった私が保育所を作る理由
こんにちは!児童発達支援施設設立に向けて取り組む保育士大久保遥です。いつも応援ありがとうございます!ご支援はこちらからお願い致します!
さて今日は私がなぜ児童発達支援施設設立を作ろうと思ったか…設立に至った経緯をお話ししたいと思います。
私自身の特性 ~幼少期~
幼少期の私は1度ハマってしまったら、ディズニー映画ならセリフを全編丸暗記できるほど、同じものをひたすら見続け、好きな服を着続け、さらに工作や製作では、折り紙の角はきれいに揃えたいし、何をするにも細かいところにこだわりを持ち揃っていることに美学を感じていました!w
家族や周りの人は割と理解があり、興味を持ったものを与えてもらってましたし、特に祖母はそんな私を「頭がいい子だ」と褒めて褒めて育ててくれました。こだわりがちょっと強めだからと言って特段困る事もなく生活をしていました。
しかし、そんな幼少期の私にとって、とても悲しかったことがありました。
私は両親が共働きだったため、保育園に通っていました。
4歳児…トンボ組の時でした。
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その日は紙粘土を使った工作でした。数日前に紙粘土で形を作り、乾かしてあったものに色を塗る日でした。
星の形を作った私の紙粘土の作品もちゃんと乾いていて、きれいに黄色に塗るんだ!と決めていました。
数人のグループで絵の具をシェアして、紙粘土に色を塗っていきます。
紙粘土の凸凹の部分、くぼみの部分、筆を使って、細部まで黄色い絵の具を塗っていました。
しばらくすると、終わった子たちが筆を片付けて遊びに入っていきました。
それでも、私は集中して満足のいくクオリティーに達していない目の前の星をひたすら黄色に塗り続けました。
残り、、、数人、、、あ、私だけだ。
と思い、そろそろ終わりにしようかと思ったとき、少し離れたところにいた女性の担任の先生2人の会話が聞こえました。
A:「ほら(見て)、うわぁ~すごいね」
B:「ほんと、こだわりすごいよね」
その嫌味っぽさと自分を否定されている感は、幼児期の私にもビシビシと伝わって、『早く終わらせてよ。』という圧を感じました。しばらくは、混乱してただ目の前の星を見つめるしかありませんでしたし、この大人2人が怖くて仕方ありませんでした。
でも、遅くなるともっと怒るかもしれないと思った私は、筆を片付け作品を大人の元に持っていきました。
A:「もういいの~?」
私:「(うん)」
B:「きれいに塗れたね、遊んできていいよ」
もうここまでくると全てが嫌味に聞こえました。
そして、他の子たちが遊ぶすみっこに身を隠しました。
先生なんて…大人なんて嫌いだ、帰らせてくれ、なんでこんなところにいなきゃいけないんだ、満足行くまで塗ることがそんなにいけないの…?
いろいろなことが頭を回り、どんどん先生がいやになりました。そして、保育園がいやになり、行きたくなくなり、いろんな手を使っては帰る術を探していました。
時には気持ち悪いと言ってみたり、時には頭が痛いと言ってみたり。
しかし保育園は1日8時間、長い子で10時間過ごす場です。
家族は働いているので、そう簡単には迎えに来れません。
それから私の制作は、”手抜き”になりました。周りが終わるころに終わりにします。きっと大人にとっては「良い子」になったと思います。
そして、もし私が将来画家になる可能性があったとしたら、その可能性はこの時からなくなってしまったかもしれません…
私の保育園のころの思い出は、モノクロがかった灰色の世界です。
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もちろんいい保育園や先生もたくさんいると思います。
(私もこの職業になって尊敬できる先生とたくさん出会いました!)
また、うちの両親も保育園にはいい先生が多かった、と言っていました。しかし、私は保育園もこの先生達もあまり好きにはなれず、悲しい思い出が多いです。子どもにとって長時間の保育は本当に負担がかかることですし、絶対的な大人の前では、大人の言うことが絶対になってしまいます。
しかし、働く家族にとって保育園はなくてはならない施設です。
”幼児は大人の一言で傷つき、未来の可能性を狭める”
このことを十分に理解している私だからこそ、できる保育があると思っています。子どもも大人も1人の人でありフラットな関係でいるべきですし、大人は長く生きていますが、私が知らないことを彼らが知ってることもあります。
他の多様性を認め尊重し合える、そんな場所をつくりたいと思っています。
子どもたちの未来のために…
どうか、温かいご支援をよろしくお願い致します。
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