【きみの声をとどけたい】個人的な、あまりに個人的な

言葉には力がある。
それはアニメを観ていれば、なおさら実感することだ。
友人とのにぎやかな会話、好きな相手に想いを伝える告白、涙とともにこぼれ落ちた悲しみ、兵士達に向けた勇ましい演説——これらは物語を形作り、ときにあざやかに、劇的に彩る。

なぎさは、そこに宿った不思議な能力を見ることができる。
いわゆる「コトダマ」だ。
声とともに発せられたそれは、光の玉のような姿をとって、対象へと飛んでいく。

ある日、なぎさは雨宿りのために喫茶店「アクアマリン」に立ち寄る。
店内には誰もいない。
だが、一角には学校の放送室で見覚えのある、マイクを備えた機材が置かれていた。
棚にはたくさんのレコードがおさめられていた。

何気なくながめていると、母がよく口ずさんでいるクラシックを見つける。
それを流しながら、ついマイクに向かってラジオパーソナリティの真似をする。
最後に、お便り募集として自身のアドレスを読み上げる。

翌日、なぎさのところに一通のメールが届く。
その内容は、母親を思い出してつらいからやめてほしい、とのものだった。
彼女は電器屋の店主に事情をたずねる。
一二年前、アクアマリンを経営していた夫婦は、交通事故に見舞われた。
夫は亡くなり、妻のほうも意識不明のままだという。

なぎさは町内のリハビリセンターにあった病室を訪れる。
そのとき、窓辺のラジオから母親に問いかける声が聞こえてくる。
同時に、紫色のコトダマが立ち現れるが、あまりにもかそけく、病床の女性まで達せずに消えてしまう。

アクアマリンで、なぎさは紫音と出会う。
紫音はあの女性の娘で、メールの送り主だった。
なぎさは、紫音から受けた不法侵入を疑いを晴らした後、不意に思いつく。
それこそが、夏休みの間、ここから自分達でラジオを放送するということだった。

ラジオに関しては、二人とも完全な素人だ。
知識がないのならば、単純に人数だけでもいたほうがよい。
事故の後、紫音は転校を繰り返し、誰も友人がいなかった。
なぎさは、自身の友人のかえでと雫を誘い、紫音に紹介する。

しばらくして、あやめがアクアマリンに乗りこんでくる。
クレームのメールを五回も送ったものの、無視されたので、直接にやってきたのだ。
彼女は、番組の基本構成や楽曲の著作権について指導する。
さらに、オリジナルのメロディを作るため、学校で音楽を専門に学ぶ乙葉を連れてきた。
ジングルをはじめとする乙葉の作曲によって、クオリティは大幅に向上する。

なぎさ達はリスナーを増やそうと、商店街にポスターを貼る。
かつてのアクアマリンを知る人々は想像よりもずっと多かった。
地元の住民達は、復活を歓迎する。
あの電器屋の店主は、各商店にすえつけられた受信機の点検と調整とを買って出た。

なぎさ達は、他校に進学した友人の夕が部活動で悩んでいることを耳にする。
なにかと夕と張り合っていたかえでは、ラジオを通じて、意地の悪い口調ながらも励ましを送る。
彼女達の声が、町内の聴取者のもとにいきわたっていく。
つまり、コトダマも広がっていく。

夏休みも後半に差しかかる。
なぎさは、アクアマリンが取り壊されてコンビニが建つ予定になっていると父から聞く。
すでに店では机や椅子の搬出が始まっていた。
次々と物が片付けられていく中で、なぎさは紫音に質問する。
以前から紫音はこれを分かっており、しかも月末に母親も転院するのだった。

かえでと雫、あやめと乙葉も駆けつけてくる。
かえでは紫音を問い詰める。
勝手になぎさ達が盛り上がっていただけだと、紫音は冷たく言い放った。

明らかに紫音は放送を楽しんでいたはずだ。
彼女は人と関わる喜びを味わっていた。
しかし、どれほど自分がこころよくても、母親に想いがいたらなければ意味がない。
夏休みも残すところあとわずかである。
いまだに母親は目覚めない。
彼女の人生においては、その期間のほうが長かった。
一二年の年月は、とてつもなくひさしい。
その内心には、諦めがあった。

もしくは、最初の友人だったから、気まずい雰囲気の中でどう振る舞えばいいのか、見当もつかなかったのかもしれない。
それと関係し、大切な人との別れがつらくならないように、あえて突き放したのだろうか。
少ししか描写がないので確実なことはいえないが、紫音の胸のうちには、そのような感情が入り混ざっていた。

ところで、そのコンビニの新店舗を経営するのは、夕の祖父であった。
彼女は提案する。
工事を始業式まで延期してもらえないか、自身が祖父に掛け合おうという。
だが、かえでには、いつでも祖父のことを口にする夕が気に食わない。
かえでは夕をののしる。
二人は口論になった。

かえでの夕への感情は、まごうかたなき嫉妬にすぎない。
夕は勉強も運動もそつなくこなす。もちろん、部活動のラクロスもだ。
周囲からの人気も高い。
その彼女が、自身が慕う祖父のことをすごいと常に公言してはばからない。
これではあたかも、常に彼女の背後にその祖父が立っているようである。
お互いに全力でぶつかって敵わないのならば、まだ納得できる。
けれども、夕の実力ではなく、祖父の力を借りて戦っているのならば、まったくフェアでない。

いくら有力者でも、孫の学校生活にまで手を出すわけではなかろう。
彼女の発言が、そのように思わせるのだ。
校内では、夕が部長になったことも、祖父の力添えだとの噂が立つ。

かえでが語気を荒立てる。
ついに、なぎさは我慢できなくなった。
悪意のある言葉は、諸刃の剣のように、自らをも切り裂く。
誰かがコトダマに傷つけられるところを、なぎさは見たくなかった。
彼女はかえでをビンタする。

こうして、それぞれの心はすれ違う。
アクアマリンも解体される。

八月三一日を迎え、いよいよ紫音達の一家は町を去ることになった。
渋滞で彼女達の乗る車が停まる。
ふと紫音は、窓の外に紫色のコトダマが浮かぶのを目撃した。
カーラジオを入れると、なぎさ達の声が聞こえる。
紫音は驚く。

なおも、なぎさ達は諦めていない。
同級生の実家だった寺の境内から発信することにする。
そこには、話を聞きつけて住民達が集まってきていた。

前方の車が動きだす。
それに続いていくと、徐々に寺から離れて電波を受信しづらくなってしまう。
紫音は引き返すように頼みこむ。
車は進んできた道を戻りはじめる。

乙葉が作った曲を、なぎさ達が歌う。
車内で、紫音も泣きながら歌声を重ね合わせる。
境内の住民達も合唱する。
町のいたるところから、数多くのコトダマが生まれていく。
それは確固として誰の目にも映った。
とうとう紫音の母親にもおよぶ。
彼女は目を覚ます。

その数年後、ラジオ局のスタジオには、アナウンサーとして働くなぎさの姿があった。

本作は、第二一回にあたる平成三〇年度の文化庁メディア芸術祭にて、アニメーション部門における審査委員会の推薦作品に選ばれた。
けっきょく劇場にはいかなかったが、コマーシャルを目にして、面白そうだと思った記憶はある。
理由はそれほど大したことはない。
上映された年の冬には、あの『宇宙よりも遠い場所』を観た。
その二年前には、あちこちから『この世界の片隅に』が絶賛されていた。
どこか雰囲気が似ているように感じて、同じように期待をしたのだ。

ところが、ネットでの評価は高いわけでない。
だいたい平均よりもちょっと上ぐらいだ。
別につまらなくはない。
ほとんどなじみはないが、江ノ島をモデルにした舞台は、懐かしさにあふれている。
紫音の母親のまぶたが上がったときには、心が揺れ動いた。

ただし、私の場合は配信サイトでの視聴だったから、そのようにいえるのだ。
仮にこれが劇場で、特に当日券であれば、たぶん不満だっただろう。

なぎさ達には絶対の目的があった。
紫音の母親のためだ。
境内の住民達もそうだった。
誰もが母親のことを考えていた。
あらゆる登場人物が、ただその一点をじっと見据えていた。

物語は、その先からあまり展開しなかった。
かえでがラクロスへの熱意を取り戻し、なぎさがアナウンサーになった程度だ。
冒頭から末尾まで、大半が彼女達の中で完結してしまっていた。
観客にとっては、どうしても他人事でしかないとの印象がぬぐいきれなかったのである。

それは、カメラを意識しろだとか、媚びろだとかいうこととは違う。
なにも『マクロス』シリーズのように、広大な銀河の果てにまで音を響かせろともいわない。
文明に破滅をもたらす戦争から、宇宙を救い出す必要はどこにもない。

しかし観客達は、舞台という建物から締め出されたままである。
窓ガラス越しに、なんとかして人物のやりとりをのぞき見ようとする。
入室はむりでも、せめて窓を開けてほしい。

アクアマリンのラジオはミニFMという分類で、開局に免許がいらない。
代わりに聴取できる範囲は限られるが、だからといって私達の受容まで制限することはない。
もしそこが、いっそう好ましく適した表現であれば、今よりも話題になっていた気がする。
この正直な感想も、コトダマになって誰かに伝わってくれないだろうか。
そうならば、これ以上に嬉しいことはきっとない。

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