【『マリア様がみてる』ほか】百合の名前

いまさらかもしれないが、女の子同士の恋愛を”百合”という。
世の中には、これをテーマにした創作がたくさんある。
しかし、その意味するところは複雑だ。
人によって、認識がばらばらなのである。
『ひだまりスケッチ』や『きんいろモザイク』は、当てはまるのだろうか。
『ドキドキ!プリキュア』や『アイカツフレンズ!』は、どうか。
あるいは、『小林さんちのメイドラゴン』は?
きっとこの答えも分かれるはずだ。

問題をいっそう難しくしているのは、”恋愛”という部分である。
男女の間であっても、そこに決まりきったものがない。
いったい友情や家族愛とは何が違うのだろうか。
その線引きもそれぞれだ。

『魔法少女まどか☆マギカ』にて、ほむらは自身の能力を用いて何度も時間を巻き戻す。
まどかが、魔女との戦闘で死ぬ未来を避けるためである。
どれだけやり直そうとも、まどかは魔法少女の契約を結び、そして戦いで命を落とす。
だが、ほむらは諦めない。
もしすべてを投げ出せば、絶望に付け入られ、彼女自身が魔女と化してまう。
ほむらには覚悟があった。
他の魔法少女を見捨て、たとえまどかに嫌われたとしても、ひたすらに悲惨な結末を変えようとあがく。

ほむらのまどかに対する強烈な想いは、百合と呼べるだろうか。
ならば、『まど☆マギ』は百合作品なのか。
ほむらのものは、けっきょく視聴者の解釈によるであろう。
が、アニメ自体は、私からすると、該当しないように思われる。
二人のかかわりが、物語の中心になっているわけではないからだ。
最終話で、ついにまどかは魔法少女に変身する。
そして、魔法少女達を待ち受ける哀れな末路から、ことごとく救済する。
要するに、まどかは、ほむらだけを選ぶのではない。
ほむらの一心は、端的には最後のまどかの祈りのきっかけにすぎない。

逆に、れっきとした百合とは何か。
このジャンルで、ほとんど必ず取り上げられるのが、『マリア様がみてる』である。
私の場合は、原作があってもアニメから知ることのほうが多い。
けれども、本作は最初に小説を読んだ。
中学一年生のとき、まず数巻を、親しかった女子に頼んで貸してもらった。
その後、残りを市立図書館で借りた。
当時はちょうど、第一四巻『涼風さつさつ』までが刊行されていた。
アニメ第一期が放映される前年のことだ。

明治期に創立されたカトリック系のミッションスクール、私立リリアン女学園の高等部には、姉妹スール制度という独自のならわしがある。
上級生が特定の一人、、、、、の後輩の、学園生活における指導をおこなうというものだ。
シリーズを通じて、何組もの、これら姉妹達のやりとりが展開されていく。

ところが、女性にとっては、別に百合などではないのだという。
いっさいのつながりが、ぴったりと友情の範囲におさまってしまうのが理由らしい。
男性の私が、この議論に加わる資格がないのは承知している。
が、あえていえば、姉妹とは、やはり単純な友人や上下の関係とは異なる気がする。
祐巳が一年生のとき、紅薔薇ロサ・キネンシスの蓉子には、同じく白、黄の聖と江利子がいた。
つぼみブトゥンは、祥子、志摩子、令であった。
彼女達の三人”ずつ”は、まあ友人といえるだろう。

しかしながら、お姉さまと妹とは唯一なのだ。
相手にないものを分け与えることで互いに成長していった祥子と祐巳、おだやかながら強く結ばれた志摩子と乃梨子、身内のような令と由乃——これらを、友情の一言で片づけられるものだろうか。
そこには特別な価値が宿っている。
そして、姉妹だけのドラマが次々と生まれていく。

夏休み、祐巳は祥子の別荘に招待されて一緒に過ごした。
志摩子は乃梨子とよく仏像めぐりに出かけた。
令は由乃の自転車の練習に付き合った。
これらはときに大変なこともあれ、楽しく嬉しかった思い出である。

もちろん、つらく悲しい出来事も起こる。
ある先輩が人違いで下級生を姉妹にする。
のちに真相が発覚すると、妹をほっぽり出し、そちらといっそう仲良くなってしまった。
また別の上級生は、姉妹になることを前提に色々と後輩の世話を焼く。
が、向こうからすればお節介でしかなく、とうとう拒絶されてしまう。
いずれも別々の短編集に収録された話だったはずだ。

主要なキャラクター達も例外ではない。
祐巳は、祥子が瞳子と親しげなのを目の当たりにしてしまう。
お姉さまから見放されたと思いこみ、祐巳はロザリオの返上を真剣に考える。
新人歓迎会にて、乃梨子は、仏具の数珠を学校にもってきていると瞳子から非難される。
実は、それは志摩子の持ち物だった。
志摩子をかばうために、乃梨子は人前で激しい詰問を受ける。
由乃は、令に対して姉妹のあかし、、、であるロザリオを突き返す。
二人が姉妹だったから立ち現れてきた、特有の困難にちがいない。
けれども、それに打ち勝ち、乗り越えることができるのも、やっぱりお姉さまが、妹がいてこそなのである。

もっとも印象深いのが、祐巳と瞳子の間柄だ。
瞳子は、祥子の遠縁で、山百合会の仕事を手伝っていたこともある。
だから、祐巳も彼女をよく知っていた。いや、そのつもりだった。
第二二巻『未来の白地図』で、祐巳は家出をしてきた瞳子を迎え入れる。
祐巳にも事情は気になったが、むりに聞き出すことはしなかった。
演劇部の瞳子は、自身の本音をたくみに隠して振る舞う。
もっと祐巳は瞳子を理解したいと感じた。
そして、なんとか手助けをしてあげられないかと思った。
今まで祐巳と祥子は、そのようにして支え合ってきたのだ。
祐巳は瞳子にロザリオを渡そうと決心する。

二学期の終業式の後、生徒会の集まる薔薇ばらの館で、クリスマスパーティが開かれる。
途中、瞳子がパーティを抜け出す。
祐巳が彼女を追いかけて、ロザリオを差し出した。
だが、瞳子は激怒しながら同情などいらないと突っぱねる。
やがてこの件は、他のメンバーも知るところとなる。

新学期になる。
生徒会選挙に、なんと瞳子も立候補を表明する。
祐巳は、予想もしなかった彼女の行動に戸惑う。
結果、瞳子は落選した。
敗れたことで、生徒会からはますます遠ざかり、祐巳との接点も失われてしまう。
瞳子は安堵する。

彼女は幼いときに肉親を交通事故で亡くしていた。
養父母には、大きな負い目があった。
ある日、瞳子は養家の経営する病院に跡取りがいないことを聞く。
彼女は直感する。
これこそ、自身だけが生き残り、二人のもとで育てられてきた意義であった。
だが、彼らの年齢を考えると、時間はあまりない。
それで自分がすぐにでも医師と結婚し、夫に養子として継いでもらうことを思いつく。
両親にこの案を反対され、口論の末に家を飛び出してきたのが、クリスマス前の家出なのだった。

瞳子は、祐巳が祥子を通じて全部を把握していたのだと勘違いしていた。
ところが、実際は祐巳どころか、祥子でさえも、全然知らなかった。
あのロザリオも、同情では決してなかった。
乃梨子の助言で、瞳子は祐巳の気持ちに応えようと決意する。
バレンタインデーのイベントの最中、瞳子が薔薇の館をたずねる。
祐巳に以前のことを謝り、自身を妹にしてほしいと懇願した。
驚いて立ち上がった祐巳の下からは、イベントの”お宝”であるチョコが発見される。

宝探しの副賞は、次期薔薇の祐巳との半日デートだ。
瞳子は何箇所かを祐巳に案内する。
そこは、病院や事故現場など、瞳子の半生を象徴するものである。
いよいよ瞳子は、自身の出生を祐巳に打ち明ける。
瞳子の従兄いとこの優から、祐巳は瞳子の家庭についてどことなくほのめかされていた。
そのときから祐巳は決めていた。
彼女は瞳子のあらゆる面を受け入れる。
そして、優しく包みこむように瞳子に寄り添う。
帰りのバスで寝息を立てる瞳子を、祐巳は静かに見つめる。

全三七巻中で、私がいちばん好きな場面だ。
すれ違った末に、二人はもう修復できなくなる寸前まで追い詰められてしまう。
読者からしても、もどかしく、とてもせつない。
にもかかわらず、祐巳達は、本人の意志と偶然のめぐり合わせで、再び惹かれ合い姉妹として結ばれた。
百合の魅力があますところなく、ぎゅっとこの瞬間に凝縮されている。
相変わらず私は図書館で借りていたが、この章は返却の期日ぎりぎりまで、三回も読み直した。

『マリみて』では、意図して、肉体の絡みが描かれていない。
割と過激な部類に属するであろう章の『いばらの森』ですら、二人は髪を結びつけ合うだけだ。
その点に、あえて直接に触れたのが、志村貴子のマンガ『青い花』である。
アニメ版のタイトルは『青い花 Sweet Blue Flowers』となる。

ちょうど放送のとき、私は大学まで電車で通っていた。
車内では読書をしていたのだが、これで知った『花物語』や『冬の花火』を手に取り開いたことを覚えている。
今回のために観返そうとしたが、例の事件の影響か、dアニメストアでは配信されていなかった。
Wikipediaも見たが、十年以上も前のことで、もしかしたら抜け落ちているところがあるかもしれないとの不安がぬぐい去れなかった。
この作品で、あまりにもそれは深刻すぎる。
しかも、いつかと思いながら、いまだに原作は読めていない。

それでも、最終回でふみとあきらが夜に母校の小学校を訪れたのは、それなりに記憶している。
ふみのスケッチブックの押し花は、ここの花壇に咲いていたものだった。
彼女は思い出す。
自身がはじめに、、、、好きだったのは、あきらであった。
作中で、ふみの恋心は、恭己やすこと千津、あきらの三人の間を行き来する。
大半の人間は、たった一人の対象しか、特段に愛することができない。
それはあちら側も同じである。
様々な感情がぶつかって折り重なり、喜びや苦悩、怒りが絶え間なく生み出される。
強引にでもほどこうとしたら、元からいっぺんに壊れてしまう。
ふみは千津、恭己と破局する。
ここでも、少女達が友情の先に行き着くところは、あやうくもろいまじわりだった。

時が経つのは早い。
『マリみて』も『青い花』も、もう十年以上も昔のものになってしまった。
比較的に最近だとして挙げられるのが、『やがて君になる』である。
侑は何の部活動に入ろうか迷っていた。
先生に勧められて、生徒会をのぞいてみる。
そこで燈子に出会う。
会話の中で、侑は他人を好きになることが分からないと燈子に伝える。
燈子はそのような侑に惚れてしまう。
そして告白する。
よく理解できないままに、とりあえず侑は燈子と交際を始める。

燈子は、侑だけに本性をさらけ出す。
元来の燈子は、臆病で寂しがり、おまけに甘えん坊だった。
普段の彼女の凜とした態度は、死別した姉をなぞったものにすぎない。
燈子の胸のうちでは、本心をごまかし続けることへの気疲れと、無力で情けない元々の自身に対する嫌悪が交錯していた。
どちらの人格も、彼女は大嫌いであった。
だからこそ、そのような自分を決して好きにならない侑に、ほかならぬ好意を抱いた。

『マリみて』や『青い花』では、登場人物はみな女子校の生徒だ。
しかし、侑と燈子が入学したのは、共学の高校である。
そこには、当たり前だが男子もいる。
聖司は、生徒会室で二人がキスするのを目撃してしまう。
彼が侑に問うと、燈子を守ろうと必死な言い訳を返される。
聖司は、絶対にばらさないと約束する。

内心、彼は歓喜していた。
聖司は他者の恋模様を見届けるのが大好きだった。
いわば、恋を扱った物語を楽しむ心情である。
が、同時に、望まない経験をも味わった。
彼自身が想いを寄せられ、いつの間にか舞台の上に引きずり出されていたのだ。
そうなると、聖司は一気に冷めてしまった。
女の子のうちだけのものならば、その心配はない。
彼は男だからだ。
最後まで心置きなく鑑賞できる究極のショーを、聖司は見出した。

この心持ちは、私達の立場を暗示する。
男性である以上、何があっても彼女達の仲間入りはできない。
『マリみて』に、リリアン女学園で学ぶ自身が、おっさんの夢なのではないかと考える生徒の短編がおさめられている。
彼女は、同級生達を見ていやらしい気分にならないかと友人にたずねられる。
が、脳をも含めて女性の身体だった彼女には、そういったものはちっともなかった。

キリスト教でいうアダムのあばら骨や、仏教の女人にょにん往生とは真逆だ。
男の身で花園に立ち入ることはできない。
そうすれば、そこはもはや汚れた土地となり果てる。
つまり、百合とは常に観客の目線にほかならない。
理想と願望とが、それを形作っていく。
私の友人は、自身が疎外されているような気がするから、好きでないという。
たぶんそれは、この残酷な現実を、彼なりに感じ取っているからにちがいないのだ。

侑は、生徒会長に立候補した燈子の選挙の手伝いをする。
燈子が侑の実家の本屋にやってきて、意味深な小説を購入する。
下校のときに、河原に立ち寄って二人でしゃべる。
体育倉庫で、侑の口の中に燈子の舌が入ってきたこともあった。
少しずつ侑には燈子への興味が芽生えだした。

相手はこちらとの距離を縮めてくる。
自分も近づきたいと願うが、けれども、積極的に手を伸ばせば、遠ざかっていってしまう。
侑と燈子とは、片思いだから成立する。
重大な矛盾をはらんだ、不安定な関係だ。

本作を刊行した電撃文庫のWebページには、かつて特設サイトが存在した。
私もWikipediaで知ったのだが、作者コメントも掲載されていたらしい。
そこでは、「ガールズラブのど真ん中を描こうとしている漫画」と述べられていた。
まったくそのとおりの表現だ。
侑と燈子とを取り巻く背景を、あのように設定した理由が、ここにある。

私は信じる。
女の子達がいつも仲良しなのも、悪くはない。
ところが、本当に人々を魅了するのはそこでない。
二人を強固にへだて、気持ちをさえぎる何かが必要なのだ。
時間でも空間でも、家や慣習、金銭、当事者の感覚ですらも構わない。
それらは運命の赤い糸を、ぷっつりとはじけ切れる限界まで、細く引っ張る。
究極の緊張が、彼女達を、けなげに物悲しくいろどる。
そうして、一種の逆転劇が開始される。
ふとした何かで破綻しかねない弱々しい状態から、本人の意欲と幸運とによって、少女達がともにいることを選び取る。
百合の本質は、まさしくこれである。

今までは、残念ながらも、私の勝手な妄想かもしれないという事実を否定しきれなかった。
しかし、『「かげきしょうじょ!!」公式ガイドブック オンステージ!』を読んでいたとき、私はたまたま見つけてしまった。


作者へのロングインタビューの中で、”女の子同士の友情ドラマ”に関する質問がある。
その回答は次のとおりだ。

男性同士の友情だと互いに悩みがあっても目的に向かって一緒に行動するうちにわかりあっていく展開も多いです。
だけど、女の子同士だと友情が生まれて共依存になって、そして別れていくパターンが多くて。
ケンカ別れではなくても、何かしらの別れを描くことが多くて、それが希望であったり破滅であったりするのですが。

似たようなことを思っていたのは、どうやら私一人ではなかった。
それで私は、自分の考えへの確信を、なおにもまして深めるにいたった。

総じて、花の命は短い。
可憐で美しいそのわけ、、は、花びらや花柱、花糸に、一瞬の存在のきらめきがとどめられているからだ。
少女達の”百合”も、である。
そこには期限がある。
彼女達は成長して大人になる。
『マリみて』の姉妹は、お姉さまが高等部を卒業すれば、自然に解消される。
『青い花』では、ふみとあきらが別々の進路を選択し、徐々に疎遠になっていく。
だが、成人した後、彼女達の”復縁”が示唆されているらしい。
『やがて君になる』のアニメは、話数の都合で、かなり中途半端な終わり方をしている。
原作の最終話で、侑と燈子は、左手の薬指に指輪をはめている。
なおも二人が慕い合っていれば、学生のときよりも、より確固としたきずなでつながるだろう。
それは完全な同性愛だ。

どのような行く末であれ、百合に永遠は断じてない。
だから、私達は限りある最高の蜜を追い求めて、働き者のミツバチのように、花畑を飛びまわるのである。

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