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コンパスと希望と浸潤と

 ただの悩みを吐き出す場を失った私は、誰かに同化することでなんとなく自分のコンパスを保っていたように思ったのだろうか。私の北を指し示すそれは誰かの磁力で狂い気づいた頃には私の北もわからなくなっていた。このまま気づかなかったならばどうなっていただろう。

 しかしそれは誰かのせいではない。なぜならばその誰かはしっかり自分の北を表すコンパスを持っていて、ありのままの話をしただけだ。世界の北は同じだが、人の人生の方角は言葉こそ同じでも指し示す方法は違う。感じ方も違えば、選ぶ道も違うのだ。その人にとっての北は貧乏かもしれないし、私にとっての北は自分を偽ることかもしれない。誰かのコンパスを使って自分の人生を生きているとふと気づいたときに遭難する。早めに気づかなければ滑落する。誰かと同じ方向へ誰かと同じ方法で進むことなどできるわけがない。なぜならば私のコンパスは私だけの世界地図の方角を示すものだからだ。

 みんな自分のコンパスを持っていて、時に人のコンパスに、または磁力に迷い惑いながらもその先へと進んでいく。例え滑落して怪我をしても生きてさえいれば治癒するもので、道なき道をまた歩き出す。そうすると気づかぬうちにまた開けた道へでて歩き出せる。意外とその道こそが自分の目指す道であったりすることだってある。

 治癒するということは、自分に力が残っているということ。そして自分一人の力では治癒できないということ。自分の世界を滑落したとき、生き残り、治癒するためには必ず誰かが助けてくれるということ。それは誰かのコンパスですくってくれているんじゃない。ただただ毛布を掛け、声をかけ、食べ物を食べさせ、ぬくもりをくれる誰かがいるということ。あたたかい気持ちを思い出させてくれること。それこそが治癒のちからの原動力だと思う。

 だから今、気づいたときにその優しさを思い出してまた歩く。遭難しそうになっても、自分のコンパスを取り戻せばまた歩き出せる。誰かのコンパスは誰かの素晴らしさ世界を導くもの。私のコンパスも私のすばらしい世界を導くもの。磁力や誰かの地図に惑わされず、私の地図があることを忘れないこと。忘れていた地図を思い返す。遭難しかけたこの道をまた引き返すのか、それとも自分のコンパスを取り戻すのか。


2017年くらいに思ったらしいこと。

きっとなにかにはっとしたのかも。
本の言葉に、偉人の言葉に、感じた優しさ。

今でもその境地に至るんですね。

誰かの方角を目指したくなる時がある。
しかし自分が辛い気持ちがあれば
それはどうも
一度置いていてもいいのかもしれない。
きっと必要ならばあるし
必要なければなくなるものです。

今日はいろいろと痛みを感じて
辛いと痛いの境目もわからなくなるくらい
しかし痛いと感じる自分であったことが
なにかしらそうであるようだったんでしょう。

やや
やりたいこと全部やらないと。などとね
考えたりしますが
だいたい今年の目標が
「やりたいこと全部やる」だったんですけれど
これ面白い、意外とできているんですね。

また二日酔いの頭で考える来年の願いも
楽しみだなぁと思ったり
鬼が笑うらしいと思ったり。

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