講評を真に受けると痛みを受ける


先生の指摘はだいたいそれっぽい。
指摘を受けた部分を直せば、最短ルートで作品が良くなる気がする。
けど、これは危ない。
真に受けすぎると、転んだときに立ち上がれなくなる。なんだよ、言ってたことと違うじゃん。なんてふうにいじけてしまう。自らの手で這いつくばって起き上がる力を身につける前に、転ぶことになる。
先生の指摘はそれっぽくて、直しさえすれば良くなりそうだから、飛びつきたくなる。大抵、制作中というのは切羽詰まっているものだ。作品を良くしたいという気持ちが強い分、焦りの中で簡単な方に流されてしまう。

作品を完成させるために最も重要なことは、自分が胸を張ってこだわったといえる選択をし続けることだ。
先生に指摘された箇所を直すことではない。
直す、言われた通りにする。こういう認識になったら危ない。
指摘には、客観的な意見が含まれる。これは貴重である。指摘の表面にとらわれてはいけない。なぜその指摘をするに至ったのか、これを考える必要がある。全体のバランスを見たときに、ここだけ変に浮いてる。粗密の調整ができていない。形に説得力がない。
あと、自分で少し気に食わないところはだいたい他の人から見ても違和感になると思った方がいい。完成度を上げたいなら、加筆修正に時間がかかろうが、めんどくさくても悩む前に取り掛かった方がいい。修正する前提で、どこをどう書き込んだり調整したりすれば最短ルートで見栄えが良くなるのか考える。
例えば、背景の白が強くて浮いて見えるから、馴染ませるために黒っぽく塗り重ねたとする。なんかその方が前より良くなると思ったから。そしたら講評では、ここの黒が馴染んでないよね、なんでここ黒くしたの?なんて言われる。白を落ち着かせたいときにできることは、黒く塗ることだけではない。背景の他にも明るい箇所を作ってバランスを取ったり、黒ではなく画面から色を抽出して使ったり、混色して白の中にも見所を作ったり。
感覚は大事だ。でも感覚に頼って選択をすると曖昧になる。本当に自分がしたいことが。作りたいものが、雰囲気が。この効果を得るために、このような理屈でこれを選びます。そんなカチッとしたやり取りをし続ける。大変だけど、私の詰めが甘い部分はこれでだいぶ改善されるはず。
全ての選択に理由がある。そんな状態を目指したい。

こう思ったんだけど。こうしたらどう?ここがなんかねぇ。
自分の作品に向けられる発言は、全て無責任だ。作品に責任を取ってあげられるのは、自分だけだ。
直す箇所が見つかった!ではなく、作品について考える窓が増えた!くらいに思っておいた方が良い。
考えすぎて思い詰めるのも作品のためにはならない。
自分がこれを作るにあたって、いちばん大切にしたいことをそのままいちばん大切にする。そのために身軽でありたい。

制作過程でこのような悩みは尽きない。何度も忘れて、思い出して何度も後悔してきた。
卒制。まだもう少し先だけど、みんなの気持ちが高まっている。私も例外でない。やる気があるだけに、空回りしないか心配だ。
でも大丈夫。できることをやりさえすれば大丈夫。焦ったら、行き詰まったら、見返したい。
作品の責任は自分で取る。

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