見出し画像

2024年05月18日の日記 落下の解剖学/膚の下

ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学』を観た。

雪山の山荘で男性が突如転落死した。不審死Suspicious Deathとみなされ、死因が他殺なのか、自殺なのかがわからない。検察は他殺と考え、死んだ男性の妻が殺人の容疑者として追及されることになる。かくして、彼女の容疑をめぐる法廷劇が展開されていく……。

まず、劇中、犬が登場するんだけどこれがすごく可愛い。俳優犬でメッシというらしい。カンヌ映画祭でもポーズをとったみたい。賢すぎる❗️

内容について(ここからネタバレ)。

この映画は法廷劇ながら容疑者となる妻の容疑を晴らす決定的な証拠が出ることもなく、また、殺したことを示す証拠も全く出ることなく、――一応無罪として判決は出るが――終わりを迎える。いわゆるどんでん返しもなく、いまいちすっきりしない終わりに感じられるかもしれない。

個人的には、かなりどっちでも(他殺でも自殺でも)ありうるだろうと思ったし、なんなら本当は妻が殺したのでは?とも思えた。

でも、この映画の主題は事実を明らかにすることにはなく、なにを信ずるかということにあるのかなと思った。死んだ男性、そしてその妻の息子が重要な証人として登場するわけだが、彼もまた決定的な瞬間は見ていないのである。しかし、彼の人生とともに過ごした両親との総合的な〈状況〉から、彼は母親が殺していないことを信じたわけである。

そしてそのことを信じたということは、彼に被った自身の事故に対する父親の苦悩を受け入れ、そのことに起因する自殺までも甘受するということに他ならない。映画は妻の「無罪」として終わりを迎えるが、彼女自身が吐露するように、裁判が終わったoverだけで、これから先の人生は続くのである。そしてそこに待ち受けるのは、息子の深い苦悩――父親の自殺が自分に起因すること――だろう。

そんな余韻を感じさせるいい映画だった。

神林長平『膚の下』を読み終わった。かなり骨太な小説だったが、そのぶん刺激もすごくあった。


舞台は月が破壊され、地球環境がめちゃくちゃになった未来。人類は絶滅の危機に瀕しており、これを回避すべく機械人に地球の復興を任せ、人類は火星で地球が復興するまでの250年間凍眠する。人類は機械人の反乱防止のため(月を破壊したのは機械人なのだ)、監視用の人造人間を造った。アートルーパーである。

主人公はアートルーパーの一人である、慧慈。生まれてから5年ほどしか経っていないため、未熟ではあるが、知能は抜群に良い。
そんな彼がアートルーパーとして、生きることの意味や自らの存在証明を探し奔走するのがこの話のメインテーマだ。

SFには単にサイエンス・フィクションと呼ぶときもあるが、スペキュレイティブ・フィクションと称されるときもある。日本語にすると思弁小説となる。

思うにSFは舞台や設定の幅や自由度がかなり高いジャンルだ。異星人を登場させてもよいし、時間を自由に行き来できてもよい。そういった特殊な設定を設けることで、いまある現実を相対化させることができる。我々があたりまえと感じていることを改めて問うことができるのだ。

『膚の下』はまさにそれに当てはまる小説で、人間とは?生きるとは?といった根本的な概念について、非常に鋭く指摘する作品だった。
それがゆえに、読むのにけっこう体力を使った。刺激的な作品で、とても面白かった!

好きな箇所をいくつか引用する……。

「あなたの行為を断罪できるのは、あなたが殺した相手である死者だけだ。それが不可能である以上、あなたの行為は永久に赦されることはない。他人を殺すとはそういうことだ。あなたに殺意はなかったのであれ、殺したくて殺したのであれ、それは関係ない。あなたを裁こうとする者は、死者に成り代わってあなたを断罪することを試みるわけだが、死者に成り代わるなど本来不可能なことだ。だが人間はそれをやらずにはいられない生き物だ。想像力を駆使して、それをやる。だが、その能力は各人によって異なる。一様な答えなど絶対に出ない。どのような答えが出されたところで、しかしあなたがそれで放されるわけでは決してない。殺した相手が人間であろうと機械人であろうと、動物や植物であろうと、同じことだ。
生命を奪うとは、そういうことなのだ、慧慈」

139p(上)

(…)幸運を授けてくれる者はだれなのだろうと、ふと慧惑は思う。自分自身というのならば『運も実力のうち』となろうが、そうとも思えなかった。
幸運とは、弱者にもたらされる恩寵のことだ――そうアミシャダイは言った。(…)自らを強者であると感じている機械人には神は存在しないのだ。必要としない、とも言える。すなわち幸運を求めることはしない、ということだろう。だが、アートルーパーである自分は、と慧慈は自問する、機械人のような、だれの支えも期待しないという感性を持つことができるだろうか。
いいや、と慧惑は、自分の幸運を祈らずにはいられない。
その祈りは、ではだれが、それを聞き届け、叶えてくれるのだろう。神か。アートルーパーの自分も機械人と同様に、そのような超越的な存在を必要とせずに生きたいものだが、神を認めずに幸運を祈るというのは、矛盾しているではないか。
たぶん自分は、現実的な存在から自分の知らないうちに多くの支援あるいは妨害を受けているのであり、それが運を左右している源なのだろう、と慧慈は感じた。自分の知らないところで行われている自分に対する干渉や影響力、それが神や悪魔というものの正体ではなかろうか。なにしろ当人の知らない間に行使される影響力なのだから、それが超越的な存在によるものだと感じられるのは自然な成り行きだろう。
(…)
幸運を感じるというのは、アミシャダイの言葉を敷衍すれば、自分より強い者がいることを自覚させられる感覚である、ということにもなるだろう。強い者からの恩寵、救いの手、支援、なのだから。だが、自分を支援してくれているすべての存在と直接に意思交換するなどというのは、強者であることを自認している機械人にとっても不可能なことだろうから、強者は幸運に頼ることは絶対にない、とは必ずしも言えまい。つまり、自分の知らない存在から支援されている、あるいはその逆に正体のわからない者から敵対視されている、というのは強者か弱者かには関係なく、すべての存在にとって共通する現実、事実であって、それを自覚するなら、機械人とて祈らずにはいられないだろう。祈りの気持ちというのは、自己という存在は自分の知らない何者かの意思に常に干渉されているという、この世の現実を自覚するところから生じるものだろうからだ、と慧慈は思う。

180-182p(下)

「主体意識の〈わたし〉、すなわち機械人の意識は、全世界的な規模で存在する。したがって、この周辺の、わたしを含む個体たちの意識が完全に消滅したとしても、機械人そのものの存在機序にはさほど影響は与えない。理解できるか、慧慈。あなたとわたしの意識構造は、まったく異なっている。わかるだろうか、いまあなたに話しているわたしの意識は、この身体の個体のみによるものだ。この状態は、しかし、わたし本来のものではない。本来の〈わたし〉とは、アミシャダイを含む、すべての機械人の個体がもつ経験記憶を総合した、機械人の主体意識、ということだ。いま話しているこのわたしは、主体意識から切り離された、その主体意識の記憶は持っているが主体そのものではない、アミシャダイのみの存在、と説明できる」
(…)
「(…)わたしは、アミシャダイが言っていることに共感できる。あなたは、アミシャダイ、不安な状態にあるんだろう。心細い、と言ったほうがいいかもしれない」
(…)「アミシャダイ、いまのあなたの状態が、わたしや、アートルーパーや、人間が認識している世界に近い。アートルーパーや人間は、種全体としてのまとまった総合的な集合意識、あなたのいう主体意識というものを、この身体という個体からは意識的に認識することはできない。そんなものは、人間にはない、または、ないに等しいんだ。意識できないのだから、それが当然なんだ」
(…)
「わたしには、いまのアミシャダイの気分が、わかる。アミシャダイ、いまのあなたには、わたしが、どんなに心細い思いで生きてきたか、人間たちがどんなに孤独な世界で生きているか、わかるはずだ。あなたが感している心細さは、わたしたちが潜在的にもっている不安、そのものなんだ」

497-499p(下)

「人間だって刻刻と姿形を変えているんだ、微妙にだが。生命は決して静止していない、というきみの言うとおりだ。大昔の中国人も、こう言っていた。知っているか、慧慈」

人の形のごときものは
万化してきわまりなし

247p(下)

『膚の下』は火星三部作の最後に位置付けられる作品なんだけど、一作目(あなたの魂に安らぎあれ)と二作目(帝王の殻)をまだ読んでいない。本自体は買ってあるので、読んでいこうと思う。

(2024/05/18)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?