見出し画像

9月10日 内心のフェイク

一昨日、昨日と日記を書けていない日があった。昨日の日記なんかは、内容が適当になってしまった。夏休みの最後に溜まっていた日記を全部一気に書くような真似はしてはいけない。その日記はフェイクだから。

日記に冗談めかした嘘やフィクションを入れるのは全く問題ないと思っているが、フェイクを書いてはいけない。それは単なる事実におけるフェイクだけでなく、思考のような内心のフェイクも含まれるからだ。

書きたいと思って書いたときと、とりあえず書いてないから書いたときとでは質的に雲泥の差がある。埋め合わせをしてはいけない。過去を埋め合わせるのではなく、今を向上させるべきである。埋め合わせた過去は一切がフェイクである。そこには私は存在していない。

imagecastを聴いた。面白かった。
ダ・ヴィンチ・恐山さんがずっと続けている日記について、なぜそれほど続けていられるのかという質問に対して、「やるものだと思っているから」という回答をしていていい考えだなあと思った。

小学校に休まず通うことができたのは、小学校に通うことということが「そういうもの」として認識されていたからという。つまり、そこにはなにかしらの理由があって通っていたわけではなく、とにかく人は小学校に通うもの、という捉われ方をされていたようである。

これが、中学、高校、大学と学歴が上がっていくごとに、学校に通うという行為そのものは相対化されていく。

通うことの意味を問うてしまう。おそらく社会の側は「通わなければならない、なぜなら〜」といって通うことの正当性を示すだろう。しかし、それはどんな理由であったとしても、反例を一つでも見つけさえすれば正当性は失われてしまう。その人にとっては。
通学の正当化をした時点で、通学以外の選択肢が出てくるわけである。

結局、「そういうもの」というある種諦念に近いかたちで認識したほうがかえって物事を続けやすいのかもしれない、と思った。
これは言い換えれば習慣という言葉とも近いかもしれない。いつもやってるし、今日もやるかという感じで別に大した意味もないのに続ける、それが習慣なのではないだろうか。

三鷹のユニテにまた行ってきた。

今回はアイスコーヒーを飲んでみた。おいしかった。

ユニテでカフェスペースを利用したいと思ったら本の購入が必要になるので、これから行こうと思っている人はご注意を。

これ、いいなあ。

「YES」という極めて意味明瞭なサインがあるにも関わらず、布置と、空白と、上下に廃されたオブジェクトによって、全体としてわからなくなっていることが面白い。そこには「わかる」から、「わからない」への転換が見られる。

そして、そこからこのポスターはなにを伝えたいんだろう?という疑問が生まれてくる。きっとその推論は「YES」を手がかりにして行われるだろう。

晴れ
『モヤモヤの日々』
『地球のため』
『言葉とは何か』

(2022/09/10)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?