見出し画像

設定。

自分の設定というものがある。
○○が好きな私、娘の私、大学生の私、etc…

人によって態度を変えるのは良くない。
一度は耳にするだろう言葉。残念ながら、私は人によって態度を変えてしまう。私には、その時、その場所、そのコミュニティにおけるそれぞれの「私」の設定があるのだ。

私はTwitterが大好きだ。大きな声では言えないが、中学生からやっていた。iosだとアプリは17歳以上だけど、androidなら13歳以上だ!だのなんだの屁理屈をこねて自分を正当化して…いかにも中学生だな。

Twitterでは、アカウントを複数持つことができる。私は、好きなコンテンツごとにアカウントを作り、「界隈」の中に生息している。アカウントごとに別のハンドルネームを付け、同じコンテンツを好む人と交流したり、情報を得たり。それぞれのアカウントは、それぞれの界隈における私の「設定」そのものだ。そこで関わる人々は、私を「〇〇が好きな△△」として認識する。

私には様々な友人がいる。小学生の時からの付き合いで、お互いに親友と呼び合うほど仲の良い友人。中学生の時に仲良くなり、今でも集まってお泊り会をする友人。気が向いたときに「遊ばん?」とlineしてひたすらしゃべり倒し、次会うのは1年後、みたいな、少し不思議な、でもとても気の合う高校時代からの友人。大学で出会った友人たちは、部活で知り合った人、同じ授業をとっていた人、出身地が同じだった人、さまざま。

そうした友人たちそれぞれにも、私の「設定」がある。「その子の友人である私」という設定が。

こんなことをしてると、もちろん疲れる。疲れた。
どれも私なのに、自分が分裂していくような気持ちになる。増えすぎた「設定」に、本来の自分が塗りつぶされそうになっている。

最初にnoteのアカウントを作った時、とあるTwitterのアカウントと同じハンドルネームにしていた。Twitter連携をする勇気まではなかったけれど、コンテンツの感想を壁打ちにするのも良いかも、と思ったのだ。「(ハンドルネーム)」ではない、私が思う「本当の私」を誰かに見てほしかったのかもしれない。
これを言ったら××さんに引かれるかな…とか、そういうことを考えて、自分の中から「他人にみせても良い私」を引きずり出して見せることに疲れていた。「他人に見せたらだめな私」だって私なのに、どんどんそんな私の居場所が「他人にみせても良い私」に奪われていく。

だから、noteでは自己紹介の記事を書かなかった。noteをそのままの自分を表現する場所にしたかったから。
もしかしたらこれですら、「設定」になってしまうのかもしれないけれど、それでも少し、息がしやすくなったと思う。脳みその声をそのまま書いているのだ。設定もくそもない。そのままの私を出力して、残しておきたいと思う。

だから汚い部屋の話もするし、好きな映画や本やアニメの話もするし、もしかしたら愚痴もこぼすかもしれない。かと思えば少しまじめな考え事を記したり。混沌。

どんな私だって私なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?