6 安全な水とトイレを世界中に

 十七の目標を眺めてみた。一つ、とても馴染み深い目標があった。それがこの六番「安全な水とトイレを世界に」だ。世界のどこかには、水がない人、あっても汚くて使えない人が大勢いる。わたしはこの問題に正面から取り組んだ経験があった。つまりSDGs経験ありだ。
 わたしはカンボジアに井戸を掘りに行ったことがある。大学二年の夏休みのこと。当時、わたしはエネルギーを持て余していた。そんなとき井戸掘りボランティアがあることを知り、早速、カンボジアに渡った。国連もジャイカも知らなかったので、リュックに保存食を詰め込んで、カードで格安航空券を買い、プノンペンに飛んだ。八月は雨季だった。空港についたら夕暮れどきで、スコールの後らしく地面がオレンジに輝いていた。飛行機のタラップを降りているときの空気の熱量とオレンジの美しさは、脳にはっきりと焼き付いた。今もときどき思い出しては、得体のしれない興奮状態に浸っている。
 現地では井戸掘りの仕事を見つけることができなかった。カフェで手当たり次第に声をかけていたところ仕事を探していると思われ、二日ほどビルの工事現場で働いてしまった。プノンペンには井戸掘りのニーズはないどころか、大きな河や湖が山ほどあった。わたしは町歩きだけでちょうど二十日滞在し、日焼けして黒さだけ一人前になり、単なるバックパッカー然として帰国した。

 井戸を掘りに行こうにも、もうボランティアに行っても役に立てそうにない。エネルギーを持て余していないどころか、一年の大半はどこかの調子が悪い。歯、腰、肩は周期的に痛み、足を挫いた、頭を打った、二日酔い、食当たり。今日は寝違えて首に違和感がある。井戸が掘れないとなると、水をきれいにする活動か。浄水器を買って送ればいいということではないだろう。手詰まりだった。
 アルバイトに出勤する前にわたしの水環境をたどってみた。小屋の外に炊事場的水場がある。蛇口を捻ると水が出た。透明、飲める、当たり前だった。公道とは反対方面に山を進むと、川幅三十センチほどの小川がある。腰を屈め、両手で水をすくって飲んでみる。ためらわずに飲むことができた。砂がモコモコと上下していて、あちこちから水が湧き出ている。小川を下流に向かった。川の中に黒いものが見え、手に取るとシジミだった。周囲を手で探り、十個ほどシジミを採集した。申し分のない食材、これが水のもたらす恩恵だろう。公道に出ると長閑な田舎の風景が広がっている。道沿いには田畑、先には深緑の山がある。わたしの水環境は充実していた。

 深夜のコンビニ、わたしは水問題と対峙していた。トイレ掃除である。洗剤を掛けて擦って流す。穴に吸い込まれていく水、水の無駄使いであり顧客満足であり、前者由来の罪悪感がやや優勢なのは、ここ二時間ほど客を見ていないせいだろう。そういえば、二時間前の客はペットボトルの水を買っていた。水を求めている人に、水を売った、これも六番の行動に当てはまるはずだ。しかし行動したと公言するには弱い。それどころか、蛇口を捻れば水の出てくる日本で、遠い外国の水を消費してしまったわけで、目先の善がワールドワイドには悪で、非SDGsと糾弾される可能性もある。行動の制限や、解決策のない悩み、気をつけないと人生が窮屈になりそうだ。
 そもそもトイレ、これはどうしたものか。六番のタイトルには”トイレ”と書いてあるが、本文でのトイレ問題の扱いは非常に小さい。タイトルに偽りあり、と言われないといいのだが。

 困ったときは発想を転換し、ニッチを攻めよう。世界は諦め、自分自身からはじめる。シンク・グローバリー、アクト・ローカリー、世界を動かす基本だ。そして六番で除け者になってるトイレ問題に光を。わたしの水環境は良好だったが、わたしのトイレ環境は日本の水準からすると低かった。我が家ではウォッシュレットが望まれていた。
 我が家のウォッシュレット化を目指してシュールームへ行ったが、価格面から検討にも値せず。半野宿のような生活には無用と判断した。水問題が金問題にすり替わっていた。だからSDGsは先進国が考えることなのか。先進国で金のない人間は行動しなくていいというのも寂しい話だ。やはり直接、水をどうにかするには、井戸掘りに行くべきなのか。なかなか手強いSDGs、微力にもなれない。大学時代の井戸掘り挑戦をカウントし、行動したということにした。
 家に戻ると雨が降ってきた。テントを持って小屋の中へ避難した。雨音がわたしに水問題を叩きつけてくる。行動欲が治まらないので、SDGsのオリジナルのロゴを作ってみた。何事も格好から。

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