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2021年3月 自分に似た石をひろう

 羊と豚を飼った話をし、1月はスープをつくった。そして2月である。

羊と豚_2月_画像


 地方都市の裏路地に活気はないが、クレープに似た甘ったるい臭いが夜の街の営業中を伝えていた。強い西風から遅れて、歌声が聞こえてきた。若い女が外れた音程で歌っている。拙い発音の日本語が理想や理屈や皮肉を叫んでいる。日本語ネイティブではない声にも見事に調和していた。題名は知らないが、この曲はブルーハーツだ。若かりしころの私は、あまりにも流行っていたから、背を向けていたバンドである。横目に見ただけでも、青さとラフな格好が気恥ずかしかった。それなのに三十年以上経った今でも口が歌詞を覚えていた。頭が臭いを覚えていた。また強い西風が吹いた。風を避けるように顔を向けた先に店があった。店の扉に手を掛けた。扉を引くと五十肩の鋭い痛みが肩から肘に飛び移った。痛みを耳の奥のブルーハーツが押しのけた。
 美容室で髪を切られながらそんな話をした。鏡越しに化粧で作った猫目の奥の小さな黒目が止まっていた。「肩が痛いのに、そういうお店には行くんですね」そう言うと、彼女は目線を髪の毛に戻し、金属の擦過音が再開した。
「そういうお店では、どういうサービスまでしてもらえるんですか」
 その西風の奥の扉は開かなかった。ゆっくりと腕を下ろし、動く腕に替えても開かなかった。私は諦めることにした。また西風が吹いて、止んで、ブルーハーツもクレープもどこかに消えていた。肘の痛みも消えていた。
「そこまで話しておいて、やっぱり行ってないって。そんな嘘は通じません。ここでは言えないようなサービスなんですね」

 こんな感じに、2021年の2月、私は青にまつわる嘘をついた。横になって肩関節を大きく回されながら。
「さすが虚言癖、天才です。いかがわしい店に行かなかったところが嘘なのか、エピソード自体が嘘なのか、美容院すら嘘なのか。疑いはじめればすべてが嘘に思えてくる。風は吹いていたのか、クレープの臭いはしていたのか、ブルーハーツは聞こえたのか。でも信じてしまう。いい話を聞かせてもらいました」
 五十肩のリハビリは難航中である。左腕が横に広がらない。「ストレッチはやったもの勝ちです。頑張りましょう」と励まされた。
 3月に入ると「自分に似た石をひろう」と送られてきた。

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