4 質の高い教育をみんなに

 目が覚めたら腹筋に力を入れて即座に布団を押しのけ、体を起こす。微睡みも二度寝もない。歯磨きと柔軟体操をする。厄年を過ぎたら体の健康は成行では保てない。薪割りをする。汗ばむようになったのは春の証だ。割ったばかりの薪で湯を沸かす。珈琲を飲む。冷えた汗が寒さの緊張感を生むが、3月の日差しに珈琲の香り、優雅な朝である。一息つくと外に出て、そして煙草を吸う。
 誰かに田舎に暮らす理由を尋ねられた際には、煙草を自由に吸いたいからと答える。自然の中で吸う煙草は至福。寒くても暑くても、朝でも夜でも、雨でも曇りでも。
 誰かに煙草を辞めない理由を尋ねられた際には、祖父が国鉄職員だったのでその借金を返していると答える。だからということもないが、煙草を吸い終えると元国鉄駅に行きたくなる。今日が水曜日であることに思い当たると、夕方、スイーツ女子たちに会いに駅へ行くことを決めて、それまでは何もしないことを決めた。私の選択肢は散歩orノー。夕方に散歩するなら、昼には散歩をしない、その程度だ。
 駅前ではスイーツ女子たちがタピオカミルクティーを飲んでいた。もちろん自作、白茶地に不揃いな黒玉が浮いている。タピオカの原料をご存知だろうか、キャッサバ芋である。キャッサバ芋を見たことがあるだろうか、私はある。そこで4番の”質の高い教育をみんなに”、である。

 三十代前半、会社を休職してエチオピアに学校を作りに行った。現地の学校の教師としてではなく、学校なるもののハードやソフトをすべて作りに。責任者であり学長は日本人の女性だった。話の内容から自分と親の間ぐらいだから、四十を超えているぐらいの年齢と判断した。瞬きが少なく動きが少ない目は、自信と夢に満ちて見えた。日本からの参加は五人だった。五人の一年間でのミッションは、職員室と教室と給食室の3部屋の建物、日本語による教育プログラムと教科書。私は一年の後も残って教師として教えたいと考えていた。ところが半月も経たない満月の夜、学長が現地の若い男と逃げた。もちろん資金を持ってである。途方にくれたのは現地に慣れてもいない五人である。ヒッチハイクで町に出て、ヒッチハイクで空港まで向かった。町へのヒッチハイクは簡単だったが、空港までのヒッチハイクには苦戦した。現地人はほとんど空港には行かないのである。日本に帰ってからも、取調べや手続きは半年以上続いた。悪者扱いの日々、税金への責任を強く感じた。
 大学時代の井戸掘りと三十代の学校作り、私の国際協力系は二戦二敗である。成功だけがすべてではないと信じたい。

 4番は前に取り組んだからクリアーってことで、というわけにはいかない。経験があるのだから、ひねり出せるはず。ハンモックに揺られれば何とかなりそうな気がして、肌寒さを我慢して今年初めてのハンモック。うとうとする、風が冷たくて目が覚める。うとうとする、手足が冷え切っているのを脳が把握して目が覚める。うとうとする、日が暮れてきて空気の冷たさに目が覚める。そろそろ駅に向かうことにした。私の4番、スイーツ女子たちの成長を見守ることで許してもらえないだろうか。彼女たちは今、質の高い教育の最中である。それが脅かされるなら、最大限の力になってあげよう。

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