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2021年5月 最後の晩餐的ランチをたべる

羊と豚_4月

 

 病院の待合室には風に吹かれた日傘の淑女の油絵が掛かっている。絵の具と煙草の臭いがする。病院からの帰り道、和菓子屋に入る。柏餅を選ぶ。柏の葉っぱの臭い。美容室を通りすぎるとき、ブリーチの刺激臭が。肉屋の前では先週のジンギスカンのラム肉のミルク臭。家に戻ると珈琲を入れる。豆をひく音の向こうに香る。珈琲を飲みながら読もうと開いた茶けた本から、冷蔵庫の奥に見つけたクサヤから、遠くのマンションに干された洗濯物から。夕方から降る雨、昨日のクレープ屋、夢に出てきたカメムシの大群。臭いは尽きない。
 積極的に臭いをかいだ。香ってくるのを待つのではなく、こちらから探しにいく。臭いをかぐ。受動的な柔軟剤の臭いに負けないように、その向こうの臭いを探して能動的に臭いをかぐ。やがて脳がそれを採用した。視覚として入ってきた情報を、嗅覚情報に変換する。遠くに見えたクレープ屋の甘い臭いがして、夢の中でカメムシの臭いがした。油絵からはその素材である絵の具の臭いがして、煙草を吸いながら描いていたという勝手な妄想での臭いもした。そしておかしなことになった。現実の今の臭いなのか、視覚経由の臭いなのか、妄想経由の臭いなのか、区別がなくなっていた。視覚の方が遠くまで届くので、先に臭いをかぐのは視覚経由だし、妄想となると過去にも未来にも届く。臭いをかいでいたら、場所や時間から解放されていた。
 臭いをかぐこと以外にも、同じようなことがあった。電子メールである。仕事でもプライベートでも電話で話す機会が減り、メールでのやり取りが増えた。全員が同じフォントで、そのままではコミュニケーションに距離があった。漠然とした危機感があったのだろう、いつからか私は遠くの臭いをかいでいた。メールの文章を声で再生していたのである。自分の声で自分の書いたメールを再生し、相手の声で送ってきたメールを再生していた。映画の配役を知って原作を読めば、頭の中で映画に変換している、しかも臭いつきで。
 もう五十肩のリハビリには慣れた。肩関節が曲がらない度に治りが遅いという現実を突きつけられ、マッサージで痛む場所を見つけてはまだ硬いと言われ、でも「綺麗に手が上がるようになってきましたね」と褒められる。そんなリハビリを受けながら、この一ヶ月間に臭いをかいだ話をした。「臭いをかいでそんな難しいことを考える人がいるってことが驚きです。石をひろえなかった悔しさですかねえ」

 五月は晩餐会、「最後の晩餐的ランチをたべる」とのこと。

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