鬼海弘雄『ぺるそな』 〜 「活きのよくない」写真たち
人間たちを撮り続けた写真家が、浅草にいた。
彼が撮影をしている姿の映像を、テレビやYOUTUBEで観たことがある。
— 東京・浅草にある浅草寺の寺務所付近に彼が立っている。参拝客の邪魔にならないよう、人の流れの傍らにたたずみ、境内を往き来する人々を眺めている。
しばらくすると、撮りたいと感じる人物が通りかかったのであろう、さりげなく彼はその人に近づき「あなたの写真を撮りたいのですが」と声をかける。
声をかけられた人は言葉に応じ、撮影に適した光の差す、寺務所の近くの朱塗りの壁の前まで、彼と共に移動する。
そして、その壁を背景に、立ち方などの簡単な指示のあと、1メートル半ほど離れて被写体にレンズを向け、写真家は静かにシャッターを切る。
撮影が済むと、その人物にお礼を言って彼は頭を下げる。
その後さらに、2、3言葉を交わしたあと、撮られた人はその場を立ち去っていく……
このような手法で撮影された、彼が偶然に出会った人々の写真は、頭の先から膝の上あたりまでが正方形のフレームに収められた、東京・浅草の、一人ひとりの肖像である。
写真家の名は、
鬼海弘雄(きかい・ひろお)。
作品集のタイトルは、
『PERSONA』(ペルソナ),草思社,2003。
※なお、普及版として、
『ぺるそな』,草思社,2005
がある。
いま私は、普及版『ぺるそな』のページを繰っている。
ここに収録されている191点の写真のうち、先に述べた浅草・浅草寺の朱塗りの壁を背景に撮影したと思われるものは183点。その中で160点の写真の下には、鬼海氏本人がつけた作品タイトルと撮影年が記されている。たとえば
「半日で仕事が終わったという交通整理員 2002」や、
「女性週刊誌をよく読む人 1998」
というふうに。
1973年のものが、収録されている中で最も古く、いちばん新しいのは2004年に撮影された写真である。実に31年もの間、浅草にやって来る人を写真にするために彼はそこに通い続けた。その集大成として、この写真集がある。
この本を所有し、収められている一人ひとりの肖像を繰り返し見ていくうちに、これらの写真を読み解く上でのある変化が私に起こった。
買った当初は、被写体となった人物の顔つきや身なり、所持品などから、この写真はどの時期に撮られたものなのかを、記載されている撮影年と照らし、納得して鑑賞していた。しかしその納得が、ある再読を機に、怪しくなってきたのだ。
ページをめくり、1人の肖像を見る。この人物は「いつの時代の人なのか」を少し考える。そして写真の下に、たとえば「1985」と書かれていれば、情報としてそれを私はただ受け入れることができた。
だがある時、キャプションに目を移さずに「写真」だけを見るようにして一人ひとりの写真を10…20と連続して眺めてみると、それまで被写体から読み取っていたはずの「時代性」が私にはわからなくなってしまった。
『ぺるそな』を読むとき、写された人間の「時」を判別する手がかりを、そこにある写真から確かに私は得ていたはずであった。しかし実は、その手がかり — 顔・服装・小物・化粧・佇まいなどは、私にとって、かなり曖昧な要素であったことに気づいた。
「製本工をしているというひと 1987」
「体を鍛えた美容師 2001」
など、写真家が丁寧に付けた作品タイトルと撮影年を踏まえて、これらの肖像写真を1点ずつ見ていくのが、この写真集の本来の楽しみ方だとするなら、キャプションを排除して — 写真のみを連続して注視していくという私のような鑑賞のしかたは作者に失礼になるのかもしれないが、しかし、これによって私は、大きな知見を得ることができた。
それは、写真の「活き・新鮮さ」について、である。
肖像から時代性を感じ取らないということは、「昔」だとか「今」だとかで、写真を区別しないということである。
実際もう私には『ぺるそな』の肖像写真については、撮影時期のことなど何も考えなくなった。いつ撮られたのかが判ったとして、それが「古い↔新しい」とか「昔↔最近」と解釈することが、私にとって無用になった。
「時」を問わなくすることで、すべての肖像写真が、まだ「生きている」と私には思えてくる。
浅草という場所で、鬼海弘雄という写真家の手によって、群衆の中から人間たちが今まさに「すくい取られた」かのような新鮮さを写真から感じる。
『ぺるそな』の写真から私が感じた「活き・新鮮さ」についての結論を最後に書いておきたいと思う。
たとえば。
水族館で泳いでいる魚の群れを見て、それを「活きがいい」と表現したくなる人は稀だと私は思う。
仮に、その魚の群れの中から1匹をすくい出して、調理場のような所に移して「はたして食べられる魚か?」と思案してみる場面を想像してみる。そこでもやはり、確かに生きているその魚に向かって「活きがいい」と思う人は多くはいないのではないだろうか。
しかし、鮮魚店の店先に並べられている商品には「この魚は活きがいいな」などと思うことはめずらしいことではないだろう。
つまり「活きがいい」とは死んだ魚に向けられた言葉なのではないか。
だとするなら、この写真家が浅草の群れからすくい取った百何十人もの人たちは、間違いなく「活き」がよくない。
活きがいいはずがない。
なぜなら、作品となった浅草の被写体の人物たちは、そこに、彼の写真集のなかに 、確実に「生き続けていく」ことになるのだから。
(おわり)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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