夜に捧げる愛の話②

夜が更けた。時津秀隆は考えていた。
このところ夜になると、思い出が鮮明に蘇る。
朝になればすっかり忘れているのに
また夜になると昨日のことのように思い出す。
寝室ではすでに妻が眠っている。音を立てないよう
そっと冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
喉を流れるビールの音さえも響いてしまうような
静かな夜だ。

「なぁ、お前たちも過去を思い出すことがあるか」
何気なく、目の前の水槽でゆらゆらと泳いでいる
グッピーに話しかける。
過去も現在も未来も泳いでいるだけの熱帯魚は
不思議と俺より幸せそうだ。

「魚のいいところはね、泳いでいるところよ」
初めてのデートで行った水族館で彼女は言った。
魚が泳ぐのは当たり前のことだが
彼女がそう言うと、不思議ととてつもなく
大切なことを聞かされたような気になった。
彼女は一つ一つの水槽を、とても大事そうに
見て回った。目立たない日本の魚たちも
小さくて派手なサンゴ礁の魚たちも
まるで愛する人を眺める時のように
優しい顔で見つめていた。
彼女からそんな風に見つめられる魚たちに
俺は嫉妬した。

暗いリビングの中で水槽だけが
光を灯している。思い出を照らすように
ピカピカと煌めいている。
カラフルな尾をゆらしながら泳ぐグッピーを
俺はたとえペットショップの店員が
「初心者でも飼いやすいですよ」などと
言わなくても買っていただろう。


結局、2回目のデートでも、
3回目のデートでも、彼女が俺を見つめる視線に
愛を感じることはなかった。
愛しそうに水槽を見つめる目で
俺のことを見る日は来ないまま
彼女とは疎遠になった。
どうして今になって彼女のことを思い出すのだろう。
もう、20年も前の話だ。
どこで何をしているのか。
目の前の水槽を見ていると、
まるで隣に彼女がいるかのようだ。
どれくらいそうしていたのか、
カサリ、と申し訳なさそうな音がする。
控えめな新聞配達員が朝刊を運んできたのだろう。
頼む、夜よ。
彼女とともに、もう少しそこにいてくれ。

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