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旧東海道歩き40 畑宿と宿場と間の宿

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いきなり看板の写真なのですが、、、
ハテ、本陣跡とな。
まず、街道の成り立ちですが、宿場町っていうのがいわゆる、本陣、脇本陣、旅籠など、宿泊施設があるところ。
ただ、宿場町の間が長い場合や、峠越えの場合は、間の宿(あいのしゅく)って言って、小休憩できるところがある。
更に、ちょっとした茶屋なんかがあるのが立場(たてば)って呼ばれる。
(そこら辺が書いてあるブログ、いくらでもあるから、ここまでも立場とかあったんだけど、すっ飛ばしてきました。。)
そして、宿場以外は、宿泊は禁止されてたんですよ。
だから、はて、畑宿に本陣とな、と。

そうそう、そもそも、箱根の宿場町、小田原と三島から人が駆り出されてできた宿。

この人のブログ、面白いな。
そして、東海道の標高、ほんと、体感もこんな感じ。
外輪山の頂を過ぎると、芦ノ湖に向かって下っていくんですよ。

ひどいw

そして、なるほどねー。
めーーちゃーーくーーちゃザックリ言うと、中世相模の国(北条の治世の頃)から、ここら辺は挽物で稼いでいて、しかも、お役御免の了承も得ていた、と。
で、江戸時代に入って、この、箱根越えで宿場に指定されたのは「芦川宿」だったのだけど、芦川宿の人たちは断った、と。
だから、小田原と三島から人を募って箱根宿ができるんだけど、それまでの間、畑宿が宿場町の役割を担っていた、ってことなのかな。
そもそも、箱根より歴史もあるし、っていう。
ただ、もちろん、東海道五十四次にはなってないし、幕府から要請されて、ではなく、自然発生的に、って感じなんだろか。
で、やっぱり、オフィシャルにも「箱根越えの中間地点」という呼び方をしている。

そして、寄木細工が出来たのが江戸後期

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畑宿一里塚を通り過ぎていきます。

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