「エモい」に感じる寂しさ
前回は自己紹介だったので、実質これが初めての記事ということになりますね。
今回は「エモい」という言葉に関して私が思うところを書いてみます。唐突。
単刀直入に言うと、私はこの「エモい」という言葉が好きではありません。
なぜか?と問われれば、それは
包括的すぎるから
です。
言葉にするのが難しい微妙な感情の動きをたったの3文字で万人に伝えられるのだから、凄い言葉ですよね。
この言葉が一般に流行りだしたのがいつ頃のことだったのかもう思い出せませんが、私の周りにも日常的に使っている人が多くいます。
ただ、ですよ。
流行りのドラマ主題歌を聴いては「エモい」。夕焼け空の写真を見ては「エモい」。青春映画を見て「エモい」。弾き語りアレンジを聴いて「エモい」。
……… 。
結局のところ「エモい」ってなんやねん!!
(関東産です。)
と、キレ気味に物申してはみましたが、私も「エモい」の指すところは分かっているつもりです。なかなか的確な言葉で言い換えるのは難しいですが、まあ、つまるところそういった極めて微妙なニュアンスを含む言葉だということです。
さて、今回の記事タイトルは「『エモい』に感じる寂しさ」です。
では、何が “寂しい” のか。
人間の感情とは、どこまでも豊かなものだと思います。
一口に “感動” と言っても、まったく同じ感動が存在することは有り得ないし、10人いればそれぞれ違う10の感動があるものだと。
そして、その豊かで繊細な感情の動きは、時に既成の言葉の枠組みに収まらなくなります。
“言葉にならない” “筆舌に尽くしがたい” ってやつです。
私は、その言葉で表すことはとてもできない、無限に豊かな感情こそが人間が持って生まれた素晴らしいものだと思います。
そして、生きていく上で大切にしたいものだと常々思っています。
例えば私自身、心に響く音楽に出会ったり、あるいはライヴやフェスで生の音楽に触れたりすることで、何とも形容し難い感動を得ることが多々あります。
そういう時は、なんとか自分の胸にある感情の正体を掴みたくて「忘れないうちに」と、急いでスマホのメモに言葉を書き連ねるのですが、どんな言葉を並べてもしっくり来ない、何かが違う、なんてことがよくあるんですね。
心の動きに言葉がついていけないんです。
そんなとき、ふと「エモい」という3文字が頭をよぎります。いま言葉に表せないこの感情も、おそらくは「エモい」という言葉の中に収まってしまうものなんだろうな…。 と。
でも、私には寂しいんですよ。それが。
簡単に言葉で表すことのできない、曖昧で繊細で豊かな感情。人間が、人間だからこそ得られるもの。
その豊かな心が全てたったの3文字に、万能で包括的なその3文字に吸い取られていってしまう気がして寂しい。
十人十色の感動が、揃って「エモい」に集約されていってしまうことが寂しい。
では「エモい」という言葉は在るべきではないのか?と問われると、そうではないです。最初にも書いた通り、微妙な感情のニュアンスを的確に万人に伝える言葉として、在るべき素晴らしい言葉だと思います。
私が言いたいのは、感情の動きに対して目を向けること、耳を傾けることを常に疎かにしない。ということです。
そして「エモい」という言葉が、人にそれを疎かにさせてしまう可能性を持っているのではないか 、ということです。
言葉にできない曖昧な感情でも、その正体を探ってみようとすること、懸命に言葉を探すこと、それ自体が、間違いなく人間の心を豊かにしてくれると思うのです。
その豊かな営みが言葉によって失われていってしまう感覚が、何より寂しいのです。
最後に…。
記念すべき初記事がこんな否定から入る内容でいいのか、とも思ったのですが…。
書きたいときに書きたいことを書くのが一番ということで!(ドドン)
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