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月末映画紹介 『はちどり』 『透明人間』


この世界が気になった〜『はちどり』〜

この作品は1994年の韓国社会に生きる少女の、親や友人との関係、淡い恋などを繊細に描いた作品だ。韓国・青龍映画賞で『パラサイト』を抑えて最優秀脚本賞を獲得するなど高い評価を得ている。

韓国に根強く残る家父長制や、江南の都市開発、ソンス大橋崩落事故など、激動の90年代韓国社会と思春期の少女の青春を重ね合わせた傑作だ。

監督は今作が長編デビュー作となるキム・ボラという女性監督。

台湾の巨匠エドワード・ヤン監督の『ヤンヤン夏の思い出』(2000)が好きというのも納得な甘酸っぱい青春映画だ。

94年の韓国で何が起こったか

あらすじ
 1994 年、ソウル。家族と集合団地で暮らす14歳のウニは、学校に馴染めず、 別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごしていた。 両親は小さな店を必死に切り盛りし、 子供達の心の動きと向き合う余裕がない。ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。
 ある日、通っていた漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。ウニは、 自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに次第に心を開いていく。ヨンジは、 ウニにとって初めて自分の人生を気にかけてくれる大人だった。

1990年代の韓国社会は経済成長が目覚しく、長く続いた軍事政権も崩壊した。一方で、急速な経済成長は格差を生み出し、97年〜98年の通貨危機へと繋がっていく。この韓国社会の成長と破綻という矛盾を、少女の成長とそれによって生じる心の歪さに重ね合わせている。

儒教文化の影響で家父長制の根強い韓国で、ウニの両親はウニに関心がない。両親は兄に受験のプレッシャーを際限なく与え、そのプレッシャーによるストレス発散の為に兄はウニに暴力を振るう。この家族にウニの居場所はない。

そして親友と恋人にも裏切られたウニは世界に居場所を失う。

唯一の理解者が漢文塾の先生のヨンジ先生だ。

ヨンジ先生はウニにとって唯一の理解者で、世界と繋がる唯一の存在なのだろう。

ウニの通学路には「私たちは死んでも立ち退かない」という横断幕が掲げられている。これは当時江南地区の再開発によって立ち退きを命じられた農業従事者のデモを指しているものだ。それに対して先生は「同情できるほど彼らを知らない」とウニに言う。

簡単に弱者に同情することはできる、しかしそんな表面的な同情が意味をなさないことを先生は知っている。だから同じ悩みを抱えているウニを先生は優しく包み込む。

ウニは他者の軽薄さ、経済成長によって何かを失っていく社会に翻弄されながら、生きることの意味を知る。小さいが必死に生きる姿は、小さな体で必死に羽を動かすはちどりのようだ。

自分を知ることと大切なものを失うこと。この二つを知ることでウニは自分を肯定することができた。

今年一番心に響いた作品です。是非ご鑑賞ください。


現代社会で「透明」が意味するもの〜『透明人間』〜

透明人間はSFやホラーにおける典型的な怪物の一つと言える。

この透明人間という概念が登場したのは1897年の小説『透明人間』が始まりだ。作者はSFの父と呼ばれるH・G・ウェルズ。

この元祖透明人間モノを換骨奪胎した作品が『透明人間』(2020)だ。

監督は『ソウ』『インシディアス』などのホラー映画で脚本兼出演していたリー・ワネル。『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』が批評的にも興行的にも大失敗し、たった1作で死んだユニバーサルのダーク・バース(ユニバーサルのクラシックモンスター映画をクロスオーバーさせようとした企画)を単発のリブート企画として復活させた最初の作品が今作である。

『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』の度肝を抜くほどの凡庸さに比べて、今作はホラー映画として近年稀に見る大傑作だと断言しよう。


「透明人間」とは一体誰か?

あらすじ
 富豪で天才科学者エイドリアンの束縛された関係から逃げることの出来ないセシリアは、ある真夜中、計画的に彼の豪邸から脱出を図る。失意のエイドリアンは手首を切って自殺をし、莫大な財産の一部を彼女に残した。セシリアは彼の死を疑っていた。偶然とは思えない不可解な出来事が重なり、それはやがて、彼女の命の危険を伴う脅威となって迫る。セシリアは「見えない何か」に襲われていること証明しようとするが、徐々に正気を失っていく。

主人公の女性セシリアが暴力的な夫エイドリアンから夜逃げするシーンでこの映画は幕を上げる。この一連のシーンのカメラワークは遠くからセシリアを覗き見るような不気味なカメラワークになっている。映画が始まって数分で観客はスクリーンを隔てた「透明人間」であることを意識させられる。

エイドリアンの元から逃げることに成功したセシリア。その後エイドリアンが自殺したことを知らされるが、彼が生きているのではと疑心暗鬼になる。

長い間抑圧され、恐怖に縛られたセシリアは精神的に追い込まれている。

セシリアの周りでは不可解な出来事が重なるが、彼女の不安定な精神状態のために誰も彼女の話を信頼しない。彼女はこの物語の主人公でありながら「信頼できない語り手」(unreliable narrator)なのだ。

「信頼できない語り手」とは物語の語り手であるはずの人物が精神的な問題を抱えていたり、倫理観が世間と解離していたり、わざと嘘をついているような語り手の言っている事が信頼できない事を指す文芸批評における用語だ。

セシリアの周囲の人間はセシリアのことを信じられないし、観客も序盤からセシリアの背後から覗き見るような形でしか物語への進入を許されていないため、目の前で起きていることが客観的な事実なのか、あるいはセシリアというフィルターを通して見た妄想なのか判別することができない。

この効果によって観客は現実か妄想かの判別をつけるために映画に終始釘付けになる。


そしてこの見えないということがこの映画の最も重要なキーになっている。『透明人間』という映画だから当たり前だろ!と言われればその通りであるが「見えないこと」は加害の透明性のメタファーとして社会的な風刺と言える。

男性優位の社会で起こる暴力やレイプは後を絶たない。家庭内で起こるDVは発覚しづらいし、恐怖で女性を抑え込んでしまえばいい。満員電車の痴漢は犯人が特定しづらく泣き寝入りすることが少なくない。レイプに関しても「同意があった」と男性が一言言えば不起訴になってしまうような事例は枚挙に暇がない。

このような事例に見られるのは「加害者の透明人間性」だ。暴力や性的加虐に対して犯人は裁かれない、発覚しない、もしくは被害女性の妄想だという世間の目、このような「加害者の透明人間性」がこの作品における「透明人間」なのだ。

透明人間は映画の中だけではない。透明人間性は観客として映画を観ている僕たちもにも向けられている。僕たちは劇場の外に出れば、誰かの叫びを見て見ぬ振りをし、無関心を装い、そんなのは妄想だと嘲笑う透明人間になる。しかし、僕たち透明人間は確かに実在しているのだ。社会の中に無数に蠢く透明人間が。


全く違うタイプの2作品を紹介させていただきました。読んでいただきありがとうございます。


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