無駄と効率化
僕は散歩するのが好きだ。何の予定もない休みの日やその後急ぎの仕事がない取材の帰り道など、大通りから外れた裏路地を歩いたり、電車に乗らず歩いて移動したりする。
知人からなぜそんなことをするのかと訊かれたことがある。その時はうまく答えられなかったが、最近いろいろ考えてある一つの答えに辿り着いた。
僕は無駄の中にある価値が好きなんだなと。
僕がやたら歩くのは正直言って無駄だ。ランニングしてるわけではないから運動不足の解消にはならないし、電車なら5分で目的地に着く場所も寄り道しながら歩けば30分かかったりする。時間の無駄と言われればその通りだと思う。
意識していなかったが、それこそ僕の目的であることに最近気付いた。電車に乗って5分で移動すると得られるものは空き時間だけだ。
一方、街を歩くと得られるものは・・・ 分からない
なんだよおい!と思うかもしれない。
でもこの分からないことが楽しい。
街を歩いていて見つけた古書店で面白い本に出会うかもしれない
あ、こんなところにレコードショップがあったのか
寂れているけど趣ある定食屋があるな
可愛い野良猫が歩いてる♪
何が得られるか分からないし、何も得られないかもしれない。
でも急いで移動して無駄を省いたらどれも得られない。
23区内は徒歩10分感覚で駅がある。そんな移動時間でも短縮して効率よく移動したいほど、現代人は時間に追われているのかもしれない。
考えてみると最近はいろいろなものが効率化されるようになってきた。
一年前に近所のTSUTAYAが閉店した。最近はレンタルビデオ店はどこも苦境に立たされていて、あちこちで閉店しているらしい。これは間違いなくNetflixやAmazon Prime Videoなどのストリーミングサービスの台頭が影響しているだろう。
コロナ禍で外出を控える人も多い中で、ストリーミングなら家から出ないでも楽しめる。しかもレンタルショップに比べると作品数は少ない。マニアではない人間にとっては選択の幅は狭くていい。提示された少ない作品の中から気になるものを見られればそっちの方が効率が良いからだ。映画オタクは1万作品から見る映画を選びたいかもしれないが、たまに映画を見るくらいの人は100作品から選べれば効率が良いと言える。
同時に、音楽もストリーミングが主流になっているし、漫画や本もアプリやKindleで楽しめるようになってきた。
出かけて選ぶ時間や労力の「無駄」、CDや本を買って物を置くスペースの「無駄」、ありとあらゆる「無駄」が削ぎ落とされている。
僕は効率化そのものを否定しない。時間や労力は貴重で、無駄にするくらいなら効率よくした方がいい。一方で、このありとあらゆる「無駄」の中には価値のあるものが含まれる。
出会いだ。
インターネットを通して誰かに提示された作品やお店や景色や体験だけではなく(それも良いけれど)、自分でたまたま見つけた出会いや周囲の友人から教えてもらった出会いは「無駄」の中にあると思う。
レンタルショップをウロウロしていて何となく目に止まった映画、散歩がてら入った喫茶でたまたま耳に入ってきた古い曲、古書店で見つけたタイトルが面白い安くてボロボロの本、インターネットではこのような出会いはかなり限られてくるだろう。
そういう無駄の中での出会いが少なくなっている気がする。
最近の効率化はすごくて、もはや人生そのものを効率よくすることもできるようになってきた。職業適正検査で向いてる仕事も選んでもらえるし、マッチングアプリでお似合いの恋人も選んでもらえる。
職業適正検査やマッチングアプリを基に仕事やパートナーを選ぶということは、こちらが選んでいるように錯覚させられるが、実際は選ばされている。
自分がやりたいことは何か、何のために働くのかという前提を考えることを停止させ、とりあえず都合よく働いといて欲しいから、自分の意思で選んでいるかのように錯覚される検査は、経営する側や為政者からしたらありがたいシステムだ。夢に挑戦して失敗したり、就職以外の人生の選択肢を取る人が減ったほうが社会の運営にとって効率がいい。人生について考えるという苦しい作業もしなくていいから、働く人間にとっても効率がいいと言えるかもしれない。
意中の人が何が好きで、何が苦手で、どんな価値観を持っているか、どんな性格なのかということを記載されたプロフィールですぐに分かれば、会話をしたり一緒に過ごしたりする中でちょっとずつ相手を理解して信頼関係を築いていくという作業をかなり省略できる。なるほどこれは効率がいい。もともと知り合いじゃないから話が合わなかったり、容姿が写真のイメージと違ったら簡単に切れるし上手くいかなくてもそれほど傷付かない。共通の知り合いもいないから別に浮気をしようが後腐れないと考える人もいるのだろう。
職業適性検査やマッチングアプリについてかなり皮肉を書いてしまったが、これらを全否定する気はさらさらない。職業適性検査をきっかけに自分の得意なことや苦手なことを知るきっかけになる人もいるだろうし、マッチングアプリで素敵な出会いをしてる人もたくさんいるだろう。
ただこういった自分が選んでいると思っていたことが実際はシステムやその管理者に選ばされているということについては僕は考えていきたいと思っている。
『PSYCHO-PASS』というアニメの近未来の日本は、AIが全市民の職業適正と結婚相手を決め、犯罪を起こす可能性がある人物を予め潜在犯として拘束・処理できるシビュラシステムというシステムがあり、市民もシビュラシステムを受け入れることで成り立っている。いわゆるディストピア社会(産業革命後に発達した機械文明の、否定的・反人間的な側面が強調されて描き出された「未来社会」)である。もちろん今の社会が『PSYCHO-PASS』と同じだとまで言うつもりはないが、僕はコロナ禍でますます強まる無駄の排除と効率化に強い違和感がある。
僕たちの生活は、テクノロジーが進化して生活がどんどん効率化していく反面、知らず知らずのうちに自由を失い、管理されているように思う。シビュラシステムのシビュラとは古代ギリシアの巫女を指し、シビュラが神から告げられたという神託が政治に大きな影響を及ぼしていた。『PSYCHO-PASS』は『ブレードランナー』の原作者としても知られるアメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの『シビュラの目』という短編小説に影響を受けているそうだが、社会のテクノロジー化とシビュラの神託で社会が動いていた時代への前時代化が同時に進む様は、最近の僕たちの社会のありようをより一層強く感じさせられる。
技術は進歩しているのに、神になり代わったテクノロジーに自分の人生を選択させ、現実の政治では非科学的な政策で、様々な業種の人たちが苦境に立たされ、しかし選択することを放棄し続けたから今更自分たちで社会も政治も自分の人生も選択できなくなっているのではないか、と僕は感じることがある。
もちろん僕もテクノロジーに頼りきりな部分は多いし、ストリーミングサービスだって利用している。ただやはり自分の人生の大切な部分は自分で選択していきたいなとは考える。いろいろ書いたけれど、他の人の生き方を非難する気も嘲笑う気も愚かだと言うつもりもさらさらない。ただもしこの文章を読んだ人が一度考えてくれたら嬉しいし、同意でも反論でも語り合えたらそれで楽しい。できれば画面を通してではなく、会って話せたらもっと楽しい。わざわざ移動して時間と労力を無駄にして生まれた出会いと交流が僕は好きだから。
とりあえず他人がどうであろうと僕は散歩しながら自分の頭で考えていきたいと思います笑
※ちなみにヘッダーの写真は無駄の代表、寿司に乗ってる食用菊です。97%の人が捨ててるらしいけど、なきゃ寂しいでしょ?
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