藤本タツキ『ルックバック』論
『チェンソーマン』の作者、藤本タツキ先生のチェンソーマン完結後初の長編読み切り作品『ルックバック』がジャンプ+にて配信された。
京アニ放火事件への哀悼のような作品であり、緻密に計算され尽くした構成で、感情を揺さぶる大傑作だ。
一部ネタバレになる内容がある。アプリのジャンプ+で無料配信されているので読後に読んでいただきたい。
京アニ放火事件の影響
この漫画を考えるうえで鍵となる要素は主に4つ。
まず2019年7月18日に起きた京都アニメーション放火殺人事件はこの作品の大きなテーマの一つになっている。
この事件ではアニメ制作会社の京都アニメーションに侵入してきた男が建物にガソリンを撒いて火をつけ、36人が殺害され、犯人を含む35人が負傷した事件だ。
戦後最大の死者数を出した殺人事件であり、その後の報道や捜査のあり方なども含めて様々な議論を呼んだ。
作中では美術学校で男が斧を振り回すという事件で京本が殺害されてしまう。絵描きが身勝手な理由で狙われたことや京本という名前も含めて京アニの事件を彷彿とさせる。
夢を追っていた若いクリエイターや若者に夢を与えていたベテランのクリエイターが多数犠牲になった京アニ事件。
藤本タツキは本作で、事件が未然に防がれたifの世界を描き、犠牲になった作り手たちと遺された者たちの苦悩に祈りを捧げたのである。
日本にタランティーノがいるならば
本作で強く意識させられたのはクエンティン・タランティーノの映画だ。
タランティーノといえば『パルプ・フィクション』や『キル・ビル』、『レザボア・ドッグス』など暴力的ながらコミカルな傑作映画を数多く世に送り出してきたハリウッドを代表する映画監督だ。
タランティーノが近年描いているのは歴史のifの物語である。
『イングロリアス・バスターズ』(2009)ではユダヤ人の少女がナチス幹部を焼き殺し、ユダヤ人の男がヒトラーをマシンガンで蜂の巣にする。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)では、カルト教団の教祖チャールズ・マンソンに諭された若い女性たちに殺害された女優シャロン・テートをハリウッドスターが救うというifの物語である。
ロマン・ポランスキーの妻シャロン・テートが 当時身籠っている時にチャールズ・マンソンの信徒に惨殺された事件は実際にあった事件だ。
特に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』はエンタメの力で奪われた命を救うという構図が本作『ルックバック』とかなり似ている。
しかし、シャロン・テートはお腹の中の赤ちゃんもろとも狂信者に殺されてしまったし、京アニの事件は実際に起こった。漫画では京本の命は奪われてしまった。
こんなことが2度と起きないように藤本タツキはタイトルとコマのアングルに「ルックバック」という言葉を込めたのだ。
「ルックバック」に込められた意味
この漫画のコマで多用されるのはバックショットというアングルである。バックショットとは人物の姿を後ろから撮影/描く構図である。
つまり振り返る(look back)ことをしなければ人物の顔は見えないし、表情も読めない。
この漫画では振り返らないバックショットが何度も何度も多用される。机に向き合って漫画を描き続け、振り返らない姿が描かれている。
人物は振り返らない(look backしない)し、読者は後ろ姿を眺める(look at back)ことを繰り返し体験させられる。
繰り返される後ろ姿は孤独やディスコミュニケーショをイメージさせる。京本は社会に向き合うことや他者とコミュニケーションを取ることが苦手だ。京本が唯一向き合うことが漫画だった。
「家族」という本来最も近しいはずの繋がりが全くもって描かれない京本の家を訪れた藤野に、京本が勇気を出して振り向いた(look back)時、京本の世界が開かれた。それは京本をのめり込ませた漫画の力であるし、漫画で繋がっていた藤野という人間の力でもある。
京アニ事件の被告の経歴を調べてみると、幼いときに両親は離婚し、被告を引き取った父親は自殺して一家は崩壊しているそうだ。
京本の家族が描かれないのと同じように「家族」というものが欠落しているのである。
京アニ事件の被告と京本は多くの点で類似している。違う点はlook backしたかどうかとlook backする相手がいたかどうかという点にある。
一つのものに向き合い、その夢を応援してくれる家族や友人がいるか、共に歩んでくれる者がいるかという違いである。
あの凄惨な大量殺人事件の後、多くの人がSNSで憎しみの罵倒を浴びせ、最も苦しい殺し方で殺すべきだと主張した。
その気持ちは理解できる。あまりに酷たらしい事件だった。
被告は治療にあたった医療スタッフに「世の中には自分に優しくしてくれる人もいるんだ」と涙を流したそうだ。もしそんな経験を被告が凶行を起こす前にしていれば、こんな事件は起きなかったかもしれない。
もちろん被告には法のもとに厳正な判決がくだされるべきだと思う。しかし、憎しみの声を浴びせ、殺せと叫ぶことは事態を何も解決しない。次の京アニ事件の引き金を引いてしまうだけだ。
恐らく藤本タツキも同じ考えをこの作品に込めている。
それがlook backに隠されたもう一つの意味である。Don’t Look Back in Angerである。
Don’t Look Back in Angerというアンセム
Don’t Look Back in AngerはイングランドのロックバンドOasisの代表曲だ。
Don’t Look Back in Anger(怒りを振り返らないで)という曲には実は本来何の意味も込められていない。曲を書いたノエル・ギャラガーがそう明言している。そもそもノエルも弟のリアムも怒りのままに行動する人間の代表のような人だ。
ところが、この曲は2017にロンドンで立て続けに起きたISISのテロ事件に対する追悼のアンセムになった。
犠牲者を追悼する集会で一人の女性がこの曲を歌い出したことで自然発生的に周囲にいた皆が歌い出した。
その後もチャリティーコンサートでこの曲が歌われたり、ノエル・ギャラガーはDon’t Look Back in Angerに関するロイヤリティを被害者遺族に寄付されるように変更したりしたことで、テロ事件に対するアンセムのようなものになった。
イスラム原理主義の組織によるテロが起こると、イスラム系住民への差別や偏見が大きくなる。そんな時こそ冷静になり怒りを振り返ってはいけないというメッセージが広まった。
藤本タツキも明らかにこの曲を意識していることが分かる。
『ルックバック』の最初のページの一コマ目の黒板に書かれたDon’tの文字、そして『ルックバック』本編があり、最後のコマに写り込む紙に小さく書かれたin Angerの文字。3つを合わせるとDon’t Look Back in Anger。
怒りを振り返らずに、ただ孤独な人に振り返りやすいように寄り添ってあげること。それが2度と悲劇を起こさないための近道になるから。
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