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月末映画紹介『クルエラ』『くれなずめ』批評

エヴァについて3つも記事を書いたので、他の映画見てないと思われたかもしれませんが、僕は映画廃人ですので、他にもいろいろ見ておりました。

今回は『101匹わんちゃん』の悪役クルエラをエマ・ストーンが演じた『クルエラ』と松居大悟監督の青春映画『くれなずめ』について書いていこうと思います。

今回もネタバレ全開ですので、鑑賞済みの方とネタバレ上等の方のみお願いします。


爽快な"勧善懲悪"映画『クルエラ』


あらすじ
パンクムーブメント吹き荒れる70年代のロンドンに、デザイナーを志す少女エステラがやってくる。情熱と野心に燃える彼女は、裁縫やデザイン画の制作に打ち込み、デザイナーへの道を駆けあがるため切磋琢磨する。そのままデザイナーへの道を進んでいくと思われたエステラだったが、カリスマ的ファッションデザイナーのバロネスとの出会いが、エステラの運命を大きく変えることとなる。夢と希望にあふれた若きエステラが、なぜ狂気に満ちたクルエラとなったのか。その秘密が明らかにされる。

クルエラ・ド・ヴィルと言えば、1961年のディズニー映画『101匹わんちゃん』に登場するキャラクターであり、「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100チャート」で39位に選ばれる映画史に残る名悪役です。『101匹わんちゃん』では仔犬を殺して毛皮を作ろうとする残虐非道な野望と痩せこけた魔女のような容姿で強烈なインパクトを残しました。

『マレフィセント』のヒットで、最近のディズニーはヴィランを主人公に据えた映画を作ろうとしているようで、『クルエラ』はその第二弾です。

結論から言えば一つの映画として見ると『クルエラ』は極めて爽快なエンタメ作品だと思います。イギリスという世界的に見ても極めて特異な階級社会の中で最下層にいる貧民の女性がのし上がっていくという構造は、イギリスに住む人でなくても多くの人の共感を呼ぶでしょう。

また、舞台となっている70年代のロンドンは、大きな権力に労働者階級が立ち向かうというカルチャーが誕生した時代でした。その象徴が70年代半ばに誕生したパンク・ロックです。マルコム・マクラーレンがプロデューサーとなりロンドンで結成されたセックス・ピストルズを発端に反体制的で攻撃的なスタイルのロック音楽はパンク・ロックと呼ばれ、クラッシュ、ダムド、ジャムなどロンドンを中心に多くのバンドが人気を博しました。やがて、ロンドンパンクは海外にも飛び火し、ストゥージズ、ブロンディ、ラモーンズ、トーキング・ヘッズなどニューヨークを中心としたニューヨークパンクも誕生しました。

作品の時代背景と、パンクが持つ反逆的なメッセージを意図とした楽曲の使い方がクルエラにも見られます。例えば以下のような音楽が作中でも使われています。

明らかに作品が持つメッセージ性を意識した音楽が数多く使われていると言えます。パンクバンドとは言えないザ・ローリング・ストーンズやニーナ・シモン、エレクトリック・ライト・オーケストラなど、70年代を代表するミュージシャンの楽曲も多く、まるでミュージックビデオを見ているような軽快感がある作品で、勧善懲悪的な構造と相まって、とにかく見ていて楽しい映画だと思います。


一方で、僕はこの映画には根本的な問題があると思います。

クルエラがクルエラではないことです。

本来のクルエラは、クルエラ・ド・ヴィルというcruel(残酷な)とdevil(悪魔)を連想させる恐ろしい名前に名前負けしないキャラクターでした。犬を殺して毛皮にして売るなど、犬猫がストレス発散の愛玩動物としてリアルでもネットでも常時消費されている現代では、人類滅亡のハルマゲドンのシナリオより恐ろしい行為ではないでしょうか!

しかし、今作のクルエラは非常に良い奴なので、犬としっかり仲良しになり、ラスボスである母の命を奪うこともなく、ちょっと過激な演出で才能を表に出しただけで富豪になってしまいます。

今作を見ただけでは、とても私利私欲で犬を殺して毛皮を売るような人間には見えません。なんなら愛犬家です。これならばこの映画の主人公はクルエラでなくてもいいのです。

昨今の事情で、ハリウッドではポリティカルコレクトネスが第一優先にされています。人種や性の平等や動物の愛護など、政治的正しさのない作品は許されないのが、昨今の状況です。もちろんポリティカルコレクトネスは大事です。僕も最優先にすべきことだと思いますし、ネットで一部の人が言う「ポリコレが表現を殺したww」みたいな言説には「バカかよ...」と思います。

しかし原作では白人だったキャラクターが有色人種になることや(これは有色人種のキャラクターが実写化の際に白人化されるホワイトウォッシュの反動ですが、やってることは根本的に同じだと思います)動物愛護に関する過剰な反応は少し違うのかなとも感じます。

特に動物を殺害するような描写を見せることは極力控えましょうということは暗黙のルールになりつつあります。英語が分かる方は今度何かの映画のエンドロールを注視してみてください。多くの映画で「No Animals Were Harmed(この映画の撮影で動物にいかなる危害も加えられていません)」という文言が掲示されているはずです。

映像メディアにおける動物の安全使用のためのガイドライン(AHA /  Guidelines for the Safe Use of Animals in Filmed Media)というものがあり、特に2005年以降の映画では掲示されていることが多いです。アレハンドロ・ホドロフスキーという狂った監督は撮影時に動物をたくさん爆殺しているので掲示されなかったりしますが。ガイドラインが気になる人はネットで調べてみるとPDFが出てきます。

もちろんこれは実際に傷つけられているかどうかのガイドラインなので、作り物を使用したり、撮影手法やCGで殺されているように見えるものは問題ないのですが、実際殺しているように見せるものも自主規制されることが多いのが現状です。特にディズニーは大きなスタジオであり、ポリティカルコレクトネスに細心の注意を払う必要があります。ディズニーにとって犬を殺して毛皮を売る人間が主人公ということ自体NGと言えるでしょう。

結果今作は見ていて「なんか良い奴じゃん」となるし、オリジナルの『101匹わんちゃん』を鑑賞したことがあり、あの恐ろしいクルエラ・ド・ヴィルを知る人間からすると肩透かしを食らったような印象を受けてしまうのです。クルエラは「悪」であるはずなのに映画の構造が“勧善懲悪”になってしまっている。これがこの映画に僕が感じた違和感です。

エマ・ストーンの根っからの人の良さも滲み出ていて、クルエラよりもマーク・ストロングの方がよっぽど悪そうに見えます。

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ディズニーというスタジオはもう何年も挑戦的な作品を作っていません。良く言えば時代に合った作品を、悪く言えば時代の顔色を伺った日和見主義的な作品を制作するスタジオになってしまっています。

例えば『トイ・ストーリー4』のような挑戦的でこの上なく素晴らしい作品が、かなり的を外れた批判が数多く寄せられたりしたので、合理的と言えば合理的と言えるでしょう。

確かに挑戦的でなくても面白ければいいという見方もあるでしょうし、確実に興行収入を稼ぐには挑戦などせずに大衆ウケのいい作品を作ればいいわけですから、ビジネスとしては正しい判断だとは思います。

ですが、挑戦のない映画に人生を変えられるような出会いはないのかなと個人的には感じますね。


前に進むためにくれなずめ!『くれなずめ』


あらすじ
優柔不断だが心優しい吉尾(成田凌)、劇団を主宰する欽一(高良健吾)と役者の明石(若葉竜也)、既婚者となったソース(浜野謙太)、会社員で後輩気質の大成(藤原季節)、唯一地元に残ってネジ工場で働くネジ(目次立樹)、高校時代の帰宅部仲間がアラサーを迎えた今、久しぶりに友人の結婚式で再会した! 満を辞して用意した余興はかつて文化祭で披露した赤フンダンス。赤いフンドシ一丁で踊る。恥ずかしい。でも新郎新婦のために一世一代のダンスを踊ってみせよう!!
そして迎えた披露宴。…終わった…だだスベりで終わった。こんな気持ちのまま、二次会までは3時間。長い、長すぎる。そして誰からともなく、学生時代に思いをはせる。でも思い出すのは、しょーもないことばかり。
「それにしても吉尾、お前ほんとに変わってねーよな。なんでそんなに変わらねーんだ?まいっか、どうでも。」
そう、僕らは認めなかった、ある日突然、友人が死んだことを─。

高校時代の所謂“陰キャ”グループの6人が友人の結婚式のために久しぶりに結集し馬鹿みたいに騒ぐパートと過去の彼らの交流が交互に描かれます。そして割と序盤で吉尾(成田凌)が実は既に亡くなっていることがあっさり明かされます。

くれなずめ とは日が沈むことを意味する くれなずむ の命令形、つまり死をくれなずむことに象徴させているのです。吉尾が成仏することが日没であり、日没が来ないと夜明け来ないわけです。つまり、前に進むための友情と亡くなった親友への哀悼の映画です。

この映画を時間軸順に並べれば、クラスや社会の中心にはなれない人たちが悪ノリをしているだけの映画です。ちょっと正直な例えをすると「居酒屋の近くの席でデカい声ではしゃいでいるグループを見ている感じ」の映画であり、個人的には心地よくはなかったです。

ですが、時間軸を交互に並べることで一体何があったのだろうと気になって最後まで飽きずに見ることができます。こういう構成は下手すると時間軸が分かりにくくなって、帰って集中力を途絶えさせる原因になりかねない手法ですが、今回はかなり効果的でした。結婚式とその他なので、分かりやすいためです。

ただ淡々と見せるだけでなくて、不死鳥やお花畑など超現実的な描写も挿入することで、映画全体にブーストがかかるといった感じも松居監督の手腕だと感じました。成田凌や若葉竜也、高良健吾、藤原季節など若手実力派俳優の演技も良かったし、いろんな俳優がカメオ出演してくるのも見応えがありましたね。

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ちょっと出てきた飯豊まりえ

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ちょっと出てきた城田優

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ちょっと出てきた内田理央


しかし、やはり個人的に彼らの「ノリ」についていけなかったこと、全体的に単調であるという印象は拭えず、ちょっと期待外れの感はありました。

最近の作品で言うと、成田凌は『愛がなんだ』、若葉竜也は『街の上で』、藤原季節は『佐々木、イン、マイマイン』が大変素晴らしかったので、それに比べるとちょっと残念ではありました。

この映画が「内輪ノリ」の映画になってしまったことを考えると、全世界中に受け入れられる『クルエラ』はすごいなと改めて思いました。


お読みいただきありがとうございました。

7月は忙しくなるのでどれだけ更新できるか、映画観れるか分かりませんが、よかったらまた読んでください!

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