見出し画像

慰めの時

幼少期の恐怖、不安、孤独。
その存在に気づいてからは、
闘うことがしんどい。
自分を鼓舞することも、
何かを「嫌う」ということさえ辛く感じる。

ただ、平穏に過ごしたい。

聖書の教えさえ、
人の口を通して聴くだけで辛い。
自分で聖書を読むことはできる。
しかし、そこに人間の解釈が入り、その口から発せられた言葉を「教え」として聴くとなると苦痛に感じる。

私の恐怖体験の要因。
間接的ではあるが、それは宗教と、
それに関わる人たち、組織。
それに起因して目の前で生じた恐ろしい親の暴力。

私のような元二世の心を、当事者たちは、
その傷を理解をしようとしているようには思えない。

「クリスチャンの愛と挨拶を…」
それが欲しいんだよ。
彼らも弱いのはわかるが…。
余りにも割に合わないよね。

幼少期の心に深い傷がある人は、
生きづらさを抱えたまま大人になり、
人間関係も、仕事、家庭、親との関係に問題を抱えるらしい。
自分もその1人だったみたい。

首の皮一枚で、収監はされなかったけど、
やった過ちは犯罪者に等しい。

そんな人間が、
こと宗教活動に限って円満に進むなんてことは、
あり得ないよね。

そう、うまくいくわけがないんだ。
聖書によって人格を変えることができると信じていた。
でも、問題は人格ではなかったみたい。
カウンセラー曰く、
両親のもとで生じた深い傷があると。

カウンセラーが、
あなたは悪くないんですよ、と言ってくれた一言。

40年間、これを言って欲しかったのか、と気づいた。
長いこと、本当に長いこと、待っていたんだなぁ。

よく耐えたと思う。

温かい涙が頬をつたう。

今は自分を慰めてあげよう。
神様は、きっと分かってくれると思いたい。

「エホバ、あなたは憐れみと慈しみに富む神…。」
詩篇86:15

#聖書