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映画『最後の決闘裁判』

二人の男と一人の女、三人の視点から展開されるストーリー、といえばいやでも黒澤明の『羅生門』を想起するのですが、そこは現代の映画、一人の女の造形はとても細やかなものでした。
(結末に触れています)




妻を強姦されたと訴え決闘に持ち込む夫、合意だった・強姦などなかったというその友人の男。ひと昔前のメロドラマなら“つまらない夫との生活の隙間に割り込む美貌の男、二人の間で女は…”、みたいな展開になるところ、この作品で妻は実のところ“どちらの男も愛していない”。
一方的に妄想を募らせ屋敷に乗り込んできたレイプ犯を愛していないのは当然で(これについてもいやほんとは好きだったんじゃないの?という見方があるのを見て驚いた)、しかし夫は?
持参金と土地を目当てに自分を娶り、プライドばかり高く低能な夫に、彼女は妻としてその時代の女性らしく尽くして仕えます。しかし意を決して被害を告白した妻にさらにレイプを加えるような仕打ち、決闘の結果によっては妻が受けることになる恥辱にはお構いなしに自分の名誉のためだけに突き進む夫を、愛せるわけがない。
男二人の中心にいる愛された女、という構図ではなく、男たちは皆同じ穴のムジナに過ぎません。女個人を誰も尊重などしていない、ただ支配と所有の欲が一人の女を取り囲んでいる薄ら寒い世界。そして見物する群衆が誰かに正義をみているわけではなく、敗者に与えられる陰惨な処刑をこそ待ち望むような熱狂も加わって世界にたった一人で女が立っているという荒涼とした世界が広がっていくのでした。馬に乗り群衆の間を進む女の空虚な表情が胸に刺さりました。
こういう役をやらせたら右に出るものはないアダム・ドライバーではありました。

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