[日記] アボカドと酒の日

 ものすごく久々に地元で飲んだ。7杯、210mlのウイスキーを飲みながら様々なことを考えたように見せかける思案顔をしながら、実は全然物を考えてはいなかった。時折思うのだけど1人で酒を飲みながらぽつぽつとバーテンと話す夜、ぼくが求めているのは対話ではなく沈黙なのである。人と会話をするために外出するのではなく、1人でなにも考えない時間を求めるがために外に酒を飲みに行くのだと思う。つまり会話はしているが脳は動いていないのだ。これは案外人と酒を飲みに行く時でも変わらないのかもしれない。その場でぼくが話していることはその場で思案して生まれたものではなく、ぼくの過ごす日常のなかでとうに答えの出ているものを翻訳して出力しているのだろう。そしてその浅はかさが心地いいのだと思う。

 yonigeのアボカドを聴きながら夜道を歩いた。よく勘違いされるが、ぼくには音楽的な好みに対してほぼ一切の穿ちがない。ぼくは一般に音楽好きとされる人々が好んで聴く尖った音楽をあまり好まない。クラシックやバラードよりもわかりやすく明るいJROCKを好きで聴く。yohigeが歌う普遍的な恋愛要素が好きで、ヤバTが歌う翻訳されきった日常を好む。ぼくはそういう自分の持つ性質に納得することが多い。たぶん、ぼくの音楽の好みは音楽に真剣に接しているある種の層は嫌うのだと思う。あるいはぼくの持つファッションの好みもそうかもしれない。ぼくが自分の浅はかさゆえに好いているある種のジャンルが、ある種のディープな趣向を持つ人からすると忌諱するものなのだろうという理解がぼくをラクにすることがあるということだ。それは、ぼくがある種のディープな趣向を小説に対して発揮したときに、ぼくが嫌うポピュラーな小説の要素を好む一定層が実在しているという事態を安静な気持ちで受け止めるための手助けになるからだ。さらにいうなら、そういう事実がぼくの持つ多種のディープな趣向に優位などないという事実を示すからだ。そして優位がないからこそ、ぼくは自分の趣向を信じられると自分で理解することができるからだ。ぼくは自分の立ち位置が正確に把握できるあらゆる要素がとても好きなのだ。

 ウイルスの影響というよりも、もう少し個人的な理由で人と会わないで過ごすことが多い。こういう1人の時間を消費しながら、ぼくのなかでずっと考えていた話と、なぜそれが面白く、なぜぼくが書かなければならないのかが整理されていく感覚がする。いざ書くと納得いかないことも多くて苦労するが、人間は道そのものを誤っていなければいずれ真実に辿り着くという教えをジョジョから学んでいるので、そういう意味では安心している。

 なにも考えずに飲んでいる最中に知らないうちに頭のなかでキャラクターができていることがある。その人はぼくの都合やストーリーの都合を気にしないで自分のしたいことを好きにする。他者の都合を考えないで自分の思うことを自分の信条に沿って行うキャラクターを見るとき、ぼくはお前のせいで1本の話に収まるのに苦労するんだぞと文句を言いながら、内心では笑っている。ぼくのような人間のなかから産まれたやつなのだから、人の都合なんか気にしないで好きに行動するほうが自然で理想なのだ。現実のうねりのなかで好きに振る舞えないこともあるぼくの代わりに、君には君の好きなように生涯を過ごしてほしいという素直な気持ちが芽生えたりする。

 人は好きにすればいいのだ。

 もし気に入らなかったら相手にアボカドを投げつけてもいいのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?