しかしお前は何者かになるべきである

「推し」という単語が一般化してひさしい。この言葉には強い宗教性を感じていると同時に(よく日本人には宗教がないと言われるが、信仰心という意味ではむしろこれほど信心深い民族はあまりいなさそうだ)、世界の成り立ちのようなものを否が応でも見せつけられるような露悪さも感じる。つまり、世界はごく一部の推される人間と、大多数の推す人間で構成されているという事実が、ありありと伝わってくるような。

 ぼくの感覚的な理解として、人間の根源的な欲望とは、自己実現によってのみ満たされるものではないかと推定している。人間が死ぬまでに満たしたい欲求は、あくまでその個人によって(行為的に)充足しうるものだ。多くの人は、子孫にそれを託す。無論、子どもの人生は子どものものであるので、親であるという立場から親の実現欲求を押しつけるのはシンプルに悪なのだが、自己から生まれた子が、その子のなしたいことをなしとげることにより、間接的に親の原初の欲求=「何者かでありたかった自分」という欲望は、機能上満たされうるものであるように思われる。

 ありていにいえば、自分の子が幸せになったとき、一般的な親は「自分はだれかを幸福にするような人間になることができたのだ」と満足し、自己の存在を肯定できるようになり、いずれ世を去るということだ。

大学でミステリ研やSF研に所属していた人なら分かると思うんですが、元々、何かの物事のファンとは、物事の全面的な肯定ではなく、批評精神、即ち批判も含めた精神性を持ってその物事を探求することなんですね。そこから批評が生まれる。推し文化は企業側がこの批評精神を骨抜きにしているんですよね https://t.co/2OJ7m2vRLi

— kemofure (@kemohure) 2023年9月10日

「推す」行為には、純粋に相手を応援するという利他的な感情だけでなく、「推している自分」という自己アイデンティティを確立する役割が含まれている。
推しを神聖化・不可侵とするようなケースも割とあるが、推しに疑問を持つことは「自分のアイデンティティの崩壊」につながるので、難しいのだ

— ultraviolet (@raurublock) 2023年9月9日

まあ、推し文化ってすげえ嫌な言い方するなら一種の「生娘シャブ漬け戦略」なんじゃねえのって感じはあるのだよな(もちろんそんな言い方されたらみんなブチギレするよなってのは理解した上で)

マーケティング仕掛ける側は、客をサービスに依存させることを「推し」という綺麗な言葉で表現する。

— あきひろ (@Werth) 2023年9月9日

 実は、推しという言葉によって淘汰されつつある単語のひとつに「信者」がある。かねてよりインターネット界隈では、なにかしらの信者であることは嘲笑の対象であったわけだが、推しというやわらかな表現が、そのバッシングを弱めた。なにかに深く入れ込み、全身全霊をかけて支えるという行為は「尊き」ものとされ、信者たちはカラの充足を感じる。

 信者という言葉が死語になる前、ぼくは信者批判を繰り返していた。〇〇が好きであることはべつにかまわない。ただし、それに盲目になってはならない。受け取る側であるわれわれの役目はあくまでも検分と調査であり、その精査ののち、価値を認められるものであるならば、その都度に賞賛が生まれてしかるべきである、というような主張を繰り返していた。好きというのは行為の前に来るものではない。あくまで後に生まれるべき評価なのだ。

 たとえば、ぼくの敬愛する作家がたまに新刊を発表するときは、ぼくはひどく緊張する。その作家のことがものすごく好きであり、また大きく影響を受けてきただけあって、ぼくのおこなう調査には、ぼくの自覚しない部分で忖度が生まれている可能性がいなめないからだ。だから自覚的に最大限、これ以上は無理だというくらい厳しい目線で読み始める。そしてそのたびに、きちんとやられる。最大の批判精神で臨んでもなお覆されたとき、それははじめてぼくにとって良いものたりえるのである。

 もちろん、これは疲れる行為だ。好きだからこそ厳しくならねばならないという接し方は、趣味的ではあれど、あまり娯楽的とはいえない。少なくとも頭をからっぽにしてできることではない。推すことはラクだ。行為の前に「よいもの」と決まっているとして接すれば、それは必定的によいものとなる。

 脱線した。自己実現の話に戻そう。なにかしらを推す。その行為によって、受け手側はなにを実現できるのだろうか。推す対象がなにかしらの創作品であったとして、架空の存在を推すことによって、あなたにいかなる益が生じるのだろうか。という、人生の意味論に転ずるならば、じつは「推している時間が楽しいから」で回答は済んでしまうのだが、そうして30代40代、あるいは50代になろうとも、自己におけるなにかしらを実現しようとせず、架空の存在を信奉する人物に対して、本当にわれわれはなにも言えないのだろうか。

 その人の生涯の存在意義など、はじめからまやかしのようなものかもしれず、またそうした蜃気楼を、ともすれば実在するものかもしれないと信じながら死ぬことも、また一種の信仰となる。ゆえに、ぼくは信仰という行為そのものを否定はしていない。

 かりに人間の一生を推すだけではならないと定義するならば、創作物の意義が、ここにはじめて生まれるように思う。それは、学びであり、また文学であるのだ。文学に触れたとき、人はなにかを学び、考えを変転させていく。学ぶとは、それまで知っていたもの、思い込んでいたものを否定するという意味であり、それによって不断に自己を変えていく行為を指す。学び、変わっていった先にある自分が推している対象は、果たして本当に以前と同じ存在なのだろうか。

 いや、もしもそれが変わっていなかったとしても、それはかまわないのだ。大切なのは過程である。実際的なチェックをおこなったすえに変わっていなかったのなら、それは意義のある確認となる。だが、それを怠って同じ対象を信仰するというのは、これは盲目であることにほかならない。つまり、批判精神を持たないということだ。

 好きであればこそ検分しなければならないとは、ひとつの側面にそうした理由を持つように思われる。

 関係するようでしないようで、少しだけ関係する話も貼る。

36才のオタクが急にハマれなくなった話(1/3) pic.twitter.com/DdNuaiGJJk

— 一秒 (@ichibyo3) 2023年9月6日

 これは興味深い漫画だった。日本のサブカルチャー文化、というより端的にいってオタク文化は、定義上はぼくよりも上の世代にはじまっているが、供給の量や世間からの目なども踏まえて、ボリュームゾーンが存在するのは、ぼくの世代ではないかと思っている。

 かねてより、ぼくは漫画やアニメの趣味は飽きるものだと予感していた。それは近ごろの自分の実感でもあるが、端を発したのはさかのぼること10年前、知り合いの法学部の教授がぼそっとつぶやいたときのことだった。

 その人の言っていたのは、おおよそこういう旨だった。「文学部の教授なんて頭が変だよ。50代、60代にもなって架空の話にあれだけ傾倒するなんて、どっかおかしくなきゃやっていられない」。これを聞いた当時のぼくは、なんという偏狭な物の見方だろうと怒った。今でも、彼の言い方には全面的な同意はしていない。だが、彼の言わんとしていたことはわかる。

 小説や漫画やアニメを包括的に含めて、作り話と呼ぼう。作り話は、どれもこれもが似通うものだ。とくに文化産業という巨大プロジェクトにおいては、差別化を図ろうとすればするほど求めるべき値がはずれていくため、あえて同じものにパターン化されている。ごくごくごく一部の例外を除いて、「お客さんがすでに知っているもの」という枠組みのなかで、ほんの少しだけ特徴を出したものが売れる傾向にあるのだ。食品でいえば、全部たこやきだと思っていい。その中身が少しだけ違うものが、流行となって売れる。差別化というのは、せいぜい味変くらいの程度でいいのだ。

 10代からたこやきを食べはじめて、30代に至るまで偏食を続けてしまった人が、いよいよ飽きはじめてしまうのは当然のことだ。20年もたこやきを食べていて平気な人間は、いないとは言わないが、かなり少ない。

 実際、文化産業という商売においても、20年もたこやきを食べている人間は、正直いってお客さんではない。株式会社「文化産業」にとっての顧客は、まだたこやきを食べはじめたばかりで、ゆえにどんなたこやきでもおいしく感じられる若い人たちや、もうあまり日常的にたこやきを食べなくなった大人たちなのだ。家庭を持つようになって、今となっては仕事にいそがしい大人が、たまのお祭りの日に子どもといっしょにたこやきを食べて「おいしいね。お父さんはなつかしいよ、こういうの」と笑顔で言ってもらえればじゅうぶんなのである。夏の大作アニメ映画を本気で見に行って本気でキレる大人は、とっくにメインターゲットではない。

 ぼくも、文化産業の商品がたこやきであることは重々承知しているため、今となっては、本気でたこやきと向き合って味をたしかめようとすることはほとんどない。しょせんは同じ粉物である。かなしいことに、作者個人がどれだけ特別で独特なものを書いたつもりであったとしても、それは年を取ったたこやきプレイヤーからすれば、ほとんどが既知の味なのだ。もっとも、ごくたまに焼き肉が提供されることもあり、そういうときは「たこやきじゃないぞこれは!!」と狂喜したりもするのだが、ほとんど狙ってみつけることができないくらいの細い線だ。

 そういうわけで、ぼくはぼく以上に年上の人間がたこやきを食べて喜んでいる姿をみると、かなり眉をひそめる。信じられないほどの味音痴か、あるいは逆に味蕾が優れていて、ぼくには認知できない味を認識しているのか、もしくは年のわりにあまりたこやきを食べてこなかったのか……。

 あるいは、たこやきを本当にいいものであると信じているか、だ。たこやきというジャンルを推すことができれば、ひょっとしたら食べ続けることができるのかもしれない。

 案外、答えはそのへんなのかもしれない。ぼくは、小説を読むという行為に対して、かなり懐疑的だ。これが娯楽として成立しているのかどうかを、つねに疑わしく思っている。Discordで友だちと話したほうが楽しいのではないか? 友だちと対戦ゲームをしていたほうがおもしろいのではないか? 人と話す、ゲームをするという娯楽と比べたときに、小説を読むという行為には、果たして意味があるのか?

オタクが30過ぎたら虚無になるやつ、受け身の趣味・生産しない趣味だから悪いというのではなくて、恋愛や仕事や社交などのライフイベントから撤退する代わりに「趣味で何者かになろう」と「ぼんやりと賭けて」しまった人たちの、「人生やっちまった」感がキツいんだと思う…。

— 凹凸ちゃんねる (@hattatu_matome) 2023年9月8日

 もう覚えてもいないくらい昔、読書という行為は、ぼくにとって自己実現の手段だった。クラスのみんなは、遊ぶといえばゲームをしている、外で遊んでいる。だが、ぼくだけは違う。ぼくだけは本を読んでいる。そうした自己と他者の差別化のために本を読みはじめた。ぼくは、自分ではないものに対して自己実現を図った。そういった自己実現は、実を結ばない。架空の存在を推すことと同じで、それじたいが目的となってしまった手段は、主体者をその先にみちびくことがない。

 さきに回答をいえば、小説を読むという行為には意味がある。なぜなら(身もふたもない論拠にはなるが)、ゲームをしたり人と話したりする行為とは、べつのものだからだ。肝心なのは、どう違うものであるのか、どれほど理解できているかだ。小説にはできて漫画やゲームにできないものとはいったいなんなのか、身に染みて理解できているかどうかだ。

 意味を求める。批判しながら接する。そうした行為はいつしかぼくのなかに根付いた。ゆえにぼくは小説という存在を懐疑している。これが本当によいものなのか、疑いながら接している。もしも本当によいものならば、漫画やゲームにはないものがあるはずだと思いながら手に取り、そして読みながらそれを探す。だからこそぼくが褒める小説は、小説という媒体が持つ機能的なプライオリティがある。それを活かせていない小説には、現代ではまったく存在価値がないと信じている。

 ぼくはいまだに、自分が小説を読んだり書いたりすることに、自己の実現欲求が潜んでいるのかどうか、懐疑している。周囲はたこやきだらけだ。そしてそこらじゅうに落ちているたこやきを拾って食い、ウマイウマイと言っている人間たちにも囲まれている。

 ぼくは焼肉のほうがおいしいと思っている。たこやきはもうとっくに飽きた。そしてたこやきをありがたがって食べている人間たちも、焼肉がもらえるならそのほうが嬉しいだろうと信じている。

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